2006年10月5日(木)四千人への給食(マタイ15:32-39)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

神の恵みの広さ、長さ、高さ、深さを知るというのは、何よりも体験して初めて実感できることかもしれません。神の恵みは信じる者一人一人に対して十分なほど注がれていることは疑いの余地がありません。しかし、個人の体験だけでは神の恵みの広さ、長さ、高さ、深さを十分に知り尽くすことはできません。何よりもそのために聖書は神の恵みの業を余すところなく伝えているのです。
ところが、聖書を読んでいると、あまりにも大きな奇跡の業に、ピンと来ないということもしばしば起ってしまいます。実はきょう取り上げる四千人の人々にパンを分け与えた奇跡は、そのわずか前に五千人もの人々に同じような奇跡が行なわれています。同じような奇跡が続くと、どうしても後に記される方は軽く扱われてしまいがちです。しかも、その奇跡に与った人の数が五千から四千に減ってしまったとなると、余計にその奇跡がもたらす恵みに対する関心が少ないものになってしまいがちです。
きょう取り上げようとしている四千人もの人々に対する奇跡が、どんな恵みをその場の人々にもたらしたのか、じっくりとご一緒に学びたいと思います

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 15章32節から39節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう3日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの篭いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。

今、お読みした個所に記された奇跡の業は、番組の冒頭でも言いましたが、14章13節以下に記された奇跡の焼き直しではないかと思われるくらい大変よく似た話です。聖書学者によっては、もともとは同じ奇跡だったのが、違った内容に発展して今のような二つの形になったのだ、と言われるぐらいです。タイムマシンにでも乗らない限り、今となってはその主張が本当に正しいのかどうか、確かめる方法はありません。けれども、少なくともこの出来事を二つともに記しているマタイ福音書の記者にとっては、現代の聖書者とは違って、これらの奇跡は二つ別々の異なる出来事であったこと、そして、それぞれに意味あって主がなさった出来事であったということは疑いえないでしょう。では、どこに違いを見出し、マタイ福音書はこの出来事をしるしたのでしょうか。そのことを学びたいと思います。

まず、二つの出来事が違ったものであることを単純に物語っているのは、細かな内容の違いであることは言うまでもありません。特に数字の違いが目を引きます。
この奇跡の恵みに与った人の数は、女子供を除いて前回が五千人なのに対して、今回は四千人です。それだけの人々に食べ物を分け与えるのに要した元手は、前回が五つのパンと二匹の魚だったのに対して、今回は七つのパンと魚が少しばかりです。少しばかりというのは前回の二匹よりも多かったと思われます。つまり、前回よりも少ない人数を養うために、今回はより多くの元手を必要としたことです。では、あまった残りはどうなのかというと、前回が十二の籠いっぱいだったのに対して、今回は七つの籠に過ぎません。こういう数の比較だけから見てくると、いかにも今度の奇跡は前回の焼き直しと言うばかりでなく、規模までもが縮小されたと誤解されるかもしれません。
もっとも、最後に言及される「籠」に関しては、五千人の給食の時に遣われた籠はバスケットほどの小さな籠だったのに対して、今回のものは人一人が入ることができるほどの大きな籠をあらわす単語が用いられているという違いはあります。そうすると、十分と言う点ではどちらも比べることができないくらい有り余るほどの恵みであったということができるかも知れません。また、そもそも、確かに今回の方が奇跡に与る人数は千人も少ないとはいえ、3日間もイエスと行動を共にした群衆たちです。前回とは比較にならないくらい、空腹を覚えたであろう人々なのですから、その飢えを満たすためにどれほどたくさんのパンと魚が必要であったのかは、前回と比べることもできないことでしょう。
つまり、二つの出来事の違いは単順に数字だけでは比較できないものがあったと言うことを心に留めておく必要があると言うことです。主の恵みはそれぞれの必要に対して十分なのですから、決して今回の奇跡を二番煎じと軽く見積もってはならないのです。

さて、この出来事の内容の細かな違いもさることながら、もっと大切な違いがこの二つの出来事には横たわっています。五千人の給食の記事は、ユダヤ人に対して行なわれた奇跡の業でした。それに対して、四千人に対する奇跡の業は誰に対してなされたものなのでしょうか。
確かに、マタイ福音書自体に、この四千人に対する給食の奇跡が、異邦人に対する奇跡であったとする明確な言及はどこにもありません。しかし、これまでの記事がそれを暗示しているようにも受け取れます。
今までの学びの繰り返しになりますが、15章の冒頭に出てきたファリサイ派の人々らとの論争は清さを巡るものでした。その清さとは自分たちユダヤ人と異邦人を区別することに関わるものでした。当然、ファリサイ派の人々にとって異邦人は救いに与ることができない汚れた人々だったのです。
しかし、イエス・キリストは彼らとの論争のあとで、わざわざ異邦人の住む世界へ出かけて行かれ、一人の異邦人をその信仰によって救いの恵みにあずからせたのでした。
そして、その記事に引き続いて記される数多くの病人たちをお癒しになったイエス・キリストの業も、それを見て褒め称えたのは、イスラエルの神を褒め称える異邦人だったのです。
きょうの話は、あたかも、そのイスラエルの神を褒め称えた群衆に対する奇跡として描かれているところに、先の奇跡とは違った意味があるのです。つまり、まことに神は選民イスラエルだけを救いの恵みに与らせようとされているのではなく、まさに、彼らが見捨てた異邦人にも有り余るほどの恵みを用意していらっしゃると言うことなのです。この奇跡はこの点で神の恵みの広さ、長さ、高さ、深さを余すところなく伝えているのです。