2006年9月21日(木)信じてやまない信仰(マタイ15:21-28)
一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
きょう、これからお読みしようとする個所には、「あなたの信仰は立派だ」という主イエス・キリストの言葉が出てきます。立派な信仰という表現は、信仰それ自体が、救いをもたらす一つの功徳のように思われてしまう危険があります。主イエスはどういう意味で、「あなたの信仰は立派だ」とおっしゃられたのでしょうか。きょう登場する一人の異邦人の女性のどういう点をわたしたちはみならうべきなのでしょうか。ご一緒に学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 15章21節から28節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
きょうの聖書の個所は先週の続きとしてマタイ福音書は記しています。「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた」とあるのは、先週学んだエルサレムからやってきたファリサイ派の人々や律法学者たちとの論争がその背景にあります。彼らがイエスの弟子たちに関して咎めたことは、清さの問題でありました。弟子たちはユダヤ人たちの昔からの言い伝えに背いて、洗わない手で食事をしていたのです。それはユダヤ人たちの慣わしによれば、異邦人に触れた宗教的な汚れのあるままで食事をすることは、自分もその汚れに与る者となると考えられていたからです。
そのことを巡る論争の後で、ファリサイ派や律法学者のところから異邦人の住むティルスとシドンの地方にわざわざ行かれたということには意味があるのです。きょうの個所に登場するカナンの女性はまさにユダヤ人から見れば、汚れた存在であり、救いからはほど遠いと思われていた者なのです。その異邦人の住む町へとイエスはわざわざ出て行かれたのです。
確かに、一見ファリサイ派の人々との論争を避けて退散したようにも見えるかもしれません。しかし、すべてのことは神の深いご計画の中で進められてきているのです。
さて、ティルスとシドンの地方に行かれイエス・キリストを迎えたのは、カナン人の女でした。カナン人というのは、旧約聖書時代モーセによって率いられたイスラエル人たちがパレスチナに移住する前からこの地に住んでいた先住民です。神によって追い出されるはずの民族の末裔と言うことですから、イスラエル人にとっては異邦人の中でももっとも神から忌嫌われていた異邦人と言うことができるかも知れません。そのカナン人の女性には娘がいて、悪霊に酷く苦しめられていました。イエス・キリストの噂はこの女性の耳にも届いていたのでしょう。さっそくイエスのもとにやってきて、自分の娘の現状を訴え、憐みを施してもらおうとします。
けれども、この女が耳にしていた噂とは裏腹に、イエス・キリストは手を差し伸べるでもなく、ただ黙ったまま何もお答えにならなかったのです。まるで女の訴えを無視しているかのように沈黙を守りつづけていらっしゃったのです。それでも叫びつづけるこの女性に、とうとう弟子たちの方が閉口してしまい、何とかしてほしいとイエスに願い出ます。そこでやっと口を開かれたイエスがおっしゃったことはこうでした。
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」
なるほど、この言葉はかつてイエス・キリストが十二人の弟子たちを派遣される時におっしゃった言葉を思い起こさせます。
「異邦人の道に行ってはならない。…むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(マタイ10:5-6)
この女にしてみれば、やっとのことで口を開いたイエス・キリストから出てきた言葉は、沈黙以上に絶望的な言葉でした。それなら、まだ黙っていてくれた方が希望が持てたかもしれません。けれども、それでもなおこの女は諦めずに助けを求めて叫びつづけます。
しかし、叫べば叫ぶほど、イエス・キリストは女の願いとは裏腹のことをおっしゃいます。
「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」
救い主の与える恵みと祝福は選民であるイスラエルの子らに先ず与えられるべきであって、それを異邦人に、しかも、異邦人の子どもに与えるのは本末転倒だとでもおっしゃりたいようです。もちろん、このようにイエス・キリストが黙っていたり、期待とは裏腹のことをおっしゃるのには理由があってのことです。
もし、何の障害もなく、直ちにこの女の願いが聞きあげられたとすれば、その噂はたちどころに広まり、奇跡を求めるだけの異邦人の群衆がイエスのところへ押し寄せてくるだけでしょう。
イエス・キリストはわざと沈黙することによって、彼女の信仰を試していらっしゃるのです。またわざと異邦人にとっては躓きとなるようなことをおっしゃっては、彼女の心のうちにある確かな願いを引き出そうとしていらっしゃるのです。もちろん、すべてをご存知であるイエス・キリストにとっては、この女の心のうちにあることもすべて知られていたことでしょう。こんなややこしい押し問答を繰り返さなくても、この女がもっている信仰はイエス・キリストの目には明らかです、。しかし、この女にとっては、求めつづけることによって、いっそう自分の願いを明確にしていくことができたのです。
このカナン人の女性はイエスの言葉をたくみに捉えて、自分自身の状況と願いとを的確に述べます。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
この女は自分が神の憐みに価しないことを率直に認めつつ、しかし、神の恵みのおこぼれでも欲しいと願っているのです。イエス・キリストをおいて他にはどこにも救い主がいないことを悟っていたからです。
イエス・キリストがおっしゃる立派な信仰とは正にこの点にあるのです。自分の側にどれほど資格がないとしても、いえ、そもそも救いにふさわしい資格などどの人間にもないのですから、ただ神の憐みと恵みにすがるより他はないのです。そのことを率直に認める信仰こそがイエスによって賞賛された信仰なのです。