2006年8月17日(木)信じない心(マタイによる福音書13:53-58)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
人が信仰を持つようになるというプロセスはほんとうに不思議としかいいようがありません。同じことを体験し、同じことを見聞きしていても、それでも、そのことを通して信仰を持つようになるかといえば、一概に結末を予想することはできないのです。それだからこそ、伝道することは難しいとも言えますし、また、それだからこそ、予想のつかない展開に驚きと感謝を感じることもしばしばなのです。
さて、きょうは故郷にお戻りになったイエス・キリストがまさに生まれ故郷で体験なさった事柄をご一緒に学んでいきたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 13章53節から58節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。
今まで学んできたマタイによる福音書の13章は、神の国の譬え話がまとめて記された個所でした。きょうさきほどお読みした個所はその13章の一番最後に置かれた個所です。もちろん、13章という区切りは福音書記者自身がつけたものではありません。そうではなく、あとの時代の人がつけた区切りにすぎません。それが福音書を書いた著者の意図と必ずしも一致するとは限らないことは言うまでもありません。従って13章の最後に置かれたからと言って、13章全体を締めくくっている個所であると言うわけではないのです。けれども、後の時代の人がつけた章の区切りと言っても、はやり、そこにはなるほどと頷ける章を区分する理由があります。
先週学んだたとえ話では、神の国は畑に隠された宝を発見した者に譬えられたり、高価な真珠を手に入れるために財産を売り払う真珠商人のように譬えられていました。確かに、それを見出す者にとって、神の国の価値は絶大なものがあります。神の国を見出した驚きは、神の国を手に入れてこそ、意味のあるものなのです。先週学んだたとえ話は、ただ、宝物がこんな畑にあったんだと驚く話ではありません。高価な価値ある真珠がありました。本当にびっくりでした、というそれだけの話ではないのです、発見者たちは、それを手に入れようと一所懸命になるのです。
ところが、きょう学ぶ個所では、イエス・キリストご自身が故郷に帰って会堂で神の国のお話をしているにもかかわらず、聴衆たちは驚きこそすれ、それを受け容れようとは少しもしないのです。ただ、驚きは躓きにしかならないのです。福音書記者自身がそういう話を13章の締めくくりに置いたと考えられなくもありません。しかしまた、それに続く話との関連から言えば、神の国の一連の譬え話の締めくくりではなく、新しい章の始まりとも取れなくはありません。つまり、13章のおしまいなのではなく14章のはじまりとも考えられなくもない個所です。
さて、どこで章の区切りをつけるべきかという問題は横に置いておくことにして、今日の個所そのものを見てみたいと思います。
ここには、イエス・キリストが故郷の村へお帰りになったこと、そして、会堂で教えられたこと、さらに、その教えられるイエスの姿に故郷の人々が驚きを覚えたことが記されます。
その驚きの中心は「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう」という疑問になって表れています。「知恵と奇跡を行う力はどこからか」と問うならば、それは「神からか人からか」という二者択一の答えに導かれていくはずです。後にイエス・キリストは祭司長や民の長老たちからご自分の権威について問われた時、直接それにはお答えにならないで、洗礼者ヨハネの洗礼が天からのものであるのか、人からのものであるのか、まずそれに答えて欲しいとおっしゃいました。このときも、権威の源泉は神からか人からかという二者択一しか答えはなかったのです。
では、故郷の人たちはイエスの教えにを耳にし、「このような知恵と奇跡を行う力はどこからか」と驚いた時、どのようなプロセスを経て、どのような結論に導かれていったのでしょうか。
故郷の人々は続けて言いました。
「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」
自分たちが幼いときから良く知っている人物であるからこそ、また、今なおその家族や親戚を熟知しているからこそ、その教えの権威とのギャップに驚いたと言うのは当然のことでしょう。しかし、彼らの心の考えはそこでストップしてしまい、それ以上、イエスの教えを心に受け止めようとはしないのです。考えても見れば、どんな預言者もまたどんなユダヤ教の教師も、素性が神秘的なので受け容れられたということではなかったはずです。むしろ、イザヤもアモスのような預言者は素性が知れ渡っていた上で、預言をし、その預言が聞かれもしていたのです。
ところが、人々はこともあろうに、イエス・キリストの素性や生い立ちを知っていることを理由に、驚きがやがては躓きへと変わってしまったのです。そして、この不信仰な心こそが、神の国の進展を妨げ、福音を受け容れることを妨げているのです。
このエピソードはこんな締めくくりの言葉で終わっています。
「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」
奇跡を目の当たりに見せてもらえないから人々が信仰を抱けないのではありません。むしろ、信じる心を持たないからこそ、イエスの教えも奇跡も意味をなさないのです。