2006年8月10日(木)神の国は隠れた宝(マタイによる福音書13:44-52)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 宝物というのは、どんなものであれ、自分の手に入れてこそ宝物としての価値があるものです。もし、どんなに価値があるものであっても、それを手に入れることができなければ、どうすることもできません。また、そもそも、その宝物の価値を知らなければ、それこそ宝の持ち腐れです。
 さて、今週もイエス・キリストがお話くださった神の国の譬え話からご一緒に学びましょう。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 13章44節から52節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

 今お読みした個所には四つつの譬え話が含まれていました。最初の二つの譬え話は互いによく似た内容の譬え話です。ちょうど先週学んだ「からし種の譬え話」と「パン種の譬え話」がペアになって共通した内容だったのと似ています。
 まず、この二つの譬え話を順に見てみることにしましょう。
 最初の譬え話は、畑に隠された宝物の譬え話です。ここに登場する人物はおそらく小作人か何かで、自分に任された土地を耕していたのでしょう。たまたま発見したその宝物は、その畑の所有者が隠していた宝物と言うよりは、もうずっと昔に埋められたもので、埋めた人ももはや消息を絶ってしまって誰が本当の持ち主かもわからなくなっていたような宝物だったに違いありません。
 さっそくこの小作人は持ち物全部を売り払ってでもこの土地を宝物もろともに自分の物にしようとします。
 その行為が合法なのか不正なのかという議論はここでは譬え話の中心ではありません。大切なのは、今まで誰も見向きもしなかったものの中に素晴らしい宝物があったと言う点です。そして、それを手に入れるためには持ち物をすっかり売り払ってでも後悔しないような価値がそこにはあると言うことです。
 宝物があることが分かっていれば、誰だってそうするに違いないといういいわけはここでは通用しません。聖書の中に素晴らしい救いの宝があることが分かっていても、必ずしも誰もがそれを手に入れて読むとは限らないからです。偶然であれなんであれ、宝物を発見してそれを手に入れようとする思いがここでは際立って描かれています。しかもそれは、強いられた犠牲なのではなく、喜びのあまり、全財産を手放してでも惜しくないという思いに満ち溢れています。神の国とは正にそういうものなのです。発見の喜びがその人の行動や生活を根底から変えてしまうのです。神の国はそれほどに大きな価値があるのです。

 二番目の譬え話も、一番目のものと非常によく似ています。違いをあえて挙げるとすれば、最初の譬え話が偶然に宝物を発見したのに対して、二番目の譬え話では、最初から優れた真珠を見つけ出すのがこの商人の営みであったと言う点です。ここでも、真珠商人なら誰だってこの男と同じ行動を取るだろうという言い訳は成り立ちません。高価な真珠一つを商売するより、そこそこの真珠を売った方がいいと考える真珠商人もいるからです。しかし、この商人にとっては他の真珠を売り払ってでもただ一つ手に入れたいユニークな真珠なのです。イエス・キリストは神の国とは正にこのようだとおっしゃるのです。それを見出す者にとっては、その者の生活を一変させてまでも手にしたいと思うほどの価値がそこにはあるのです。
 ただ、残念なのはそのように神の国を見出す者たちが非常に少ないと言うことなのです。イエスの時代でさえ、ユダヤの宗教家たちはそれを見出すどころか、かえってその宝を埋もれたままにしてしまっていたのです。

 さて、続けて語られる三番目の譬え話は、先の二つの譬えと繋がっていると言うよりは、どちらかと言うと、その前に語られていた毒麦の譬え話によく似ています。
 漁師が網を投げ入れて、いっぱいになると引き上げる。しかし、網になかった魚を全部舟に挙げるわけではなく、不要なものは捨ててしまうと言う話です。
 先々週取りあげた「毒麦の譬え」との違いをあえて挙げるとすれば、漁師たちは網には余計な魚が入ることを承知で網を投げていると言う点です。毒麦の譬えのように、思いがけず悪い者がやってきて、毒麦の種をまいていったというのとは違います。それから、結末の強調点も若干違っています。毒麦の譬えでは、救われる者が選び分かたれて収穫されると言う点に強調点が置かれていました。しかし、網を投げる漁師の譬えでは。選ばれない魚が捨てられるという裁きの点に強調点があると言うことです。もっともそれらの違いを考慮したとしても、伝えたいことは一つです。それは神によって選別される時が来ると言うことです。しかし、だから毒麦にならないように、だから捨てられる魚にならないようにというのがイエスの結論ではなさそうです。むしろ、神が定めたもうそのときまで、網は投げつづけられるのです。そのように神の国の働きに与るようにイエスの弟子たちは招かれているのです。

 最後に四番目の譬えでは、神の国の教えを学んで理解した弟子たちを譬えて、「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」とイエス・キリストはおっしゃいます。
 イエスは神の国の教えを学んだ弟子たちをこそ「学者」とお呼びになり、律法学者と対比させているようです。そして、その神の国の学者は自由に自分の倉からものを取り出すことができる一家の主人に譬えられているのです。イエス・キリストは弟子たちをそのような者として世に送り出していらっしゃるのです。