2006年7月13日(木)「イエスの母、イエスの兄弟とは」 マタイによる福音書 12章46節〜50節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 家族の絆、血のつながりと言うものは、いい意味でも悪い意味でも強いものがあります。特にこの番組を聴いていらっしゃるリスナーの方たちの中には、家族の強い反対で教会へ行くことすらままならないと言う方もいらっしゃいます。とても残念なことですが、家族や親族と言うものは、必ずしもキリスト教信仰に対してもろ手を挙げて理解を示してくれるわけではありません。きょうこれから取上げようとしている個所を読むと、実はイエス・キリストご自身が家族の強い抵抗に遭われたということが分かります。イエスと長年暮らしを共にした家族でさえそうなのですから、まして、イエス・キリストと直接かかわりのない人たちにとっては、家族の一員がキリスト教を信じることはなかなか理解できないことと言ってもよいのです。そのような家族との軋轢に悩む者たちにとって、きょうの個所は大きな慰めと励ましになることと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 12章46節から50節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

 さて、きょうの個所は群衆に話し続けておられるイエスのもとに、イエスの家族の者たちがやってきたところから始まります。何のためにイエスの家族がイエスのもとを訪ねてきたのか、マタイによる福音書はそれほどはっきりとその理由が記されていません。ただ、「話したいことがあって」とだけ記されています。
 実は事の顛末を詳しく記しているマルコの福音書を読めば分かるとおり、「話したいことがあって」と言うのはイエスを外へ連れ出すための口実に過ぎないことが分かります。
 このマタイによる福音書でもそうですが、イエスの家族の者たちがやってきることになるきっかけは、ファリサイ派の人々が流していたイエスについての風評がその一因にありそうです。
 ファリサイ派の人々はイエスの活動を悪霊の頭の手助けによるものだと決め付けて、「イエスはベルゼブルに取りつかれている」という噂を流していました。そんなこともあって、マルコの福音書によれば、イエスの身内の者たちはイエスが気が狂ったのだと思って取り押さえに来たと記されています(マルコ3:21)。イエスを取り押さえに来た身内の者と、きょう登場するイエスの母やイエスの兄弟が同じ人々をさしているのかは分かりませんが、ただ「話したいことがある」という穏やかな理由でイエスを外へ呼び出そうとしているのではなさそうです。
 もちろん、イエスの家族がイエスを外へ連れ出そうとしているのは、そうした風評を鵜呑みにしているからとばかりはいえません。人々の悪いうわさの中に自分の家族の一員を放置しておくことを忍びないと感じたからかもしれません。そのような行動は家族愛から出たと言っても良いかもしれません。ただ、理由はどうあれ、はっきりしていることは、彼らは家族の一員であるイエスをその場から外へと連れ出そうとしていると言うことです。言い換えれば、イエスの活動を強制的に中断させようとしていると言うことなのです。
 そこで、取次ぎの人がイエスのもとにやってきて「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と告げたとき、イエスの対応は冷ややかとも思えるものでした。  イエス・キリストはおっしゃいました。

 「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」

 このイエスの問いに、イエス・キリストご自身がお答えになっています。

 「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

 イエス・キリストが「見なさい」とおっしゃる時、その指先には弟子たちがいたとマタイの福音書には記されています。イエス・キリストにとっては天の父の御心を行う弟子こそがご自分の兄弟、姉妹また母なのです。
 もちろん、ここでは「天の父の御心とは何か」「それを行なう」とはどういうことなのか、そういうことにわたしたちの関心が向かうのは当然でしょう。しかし、その前に、そのようにキリストに従う弟子たちに対して、「わたしの兄弟、姉妹、また母である」とおっしゃって、くださるイエス・キリストがいらっしゃるのです。ご自分の家族の一員と思ってくださるその恵みを覚えたいと思います。イエス・キリストはそのようにご自分に従う者たちを受け容れてくださるのです。

 さて、それでは、天の父の御心とはなんでしょうか。また、それを行なうとはどういうことでしょうか。この「天の父の御心を行う人」と言う言葉すでに、マタイ福音書の7章21節に「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」というところに出て来ました。そこでは、「御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行った」というだけでは、御心を行なったとは認められていないのです。
 確かに神の御心はモーセの十戒の中に端的に示されています。そして、イエス・キリストはそれを要約して、神を愛することと隣人を愛することが、律法の要であるとおっしゃっています。けれども、それができないからこそ救いを必要としているのが人間です。それだからこそ、神は愛する独り子イエス・キリストをこの世にお遣わしになったのです。
 ヨハネ福音書の6章28節でユダヤ人たちは「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねていますが、それに対してイエス・キリストは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とお答えになっています。救いのためにキリストを信じること、このことこそ今求められている神の御心なのです。そのように神が遣わされたキリストを信じる者こそが、イエスのの兄弟、姉妹、また母なのです。