2006年6月15日(木)「神の国はまさにここに」マタイによる福音書 12章22節〜32節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
同じ現象を目の当たりにして、それをどう受け止めるのかというのは、人それぞれに違っています。少しおかしな言い方かもしれませんが解釈が入り込んでいない事実などないといっても良いのかもしれません。人は皆、自分の言っていることが事実だと思っていますが、そこにはいつもその出来事をどういう理解で受け止めているのかという解釈がついて回っているのです。
聖書を読むということは、結局は何が起ったかということを解釈とともに受け容れることなのです。ちょっとわかりにくい話かもしれませんが、これから取上げようとしている個所は、まさに同じ出来事をまったく正反対に受け止める人たちのことが取上げられています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書12章22節から32節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自信があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、"霊"に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
すでに学んだように、イエス・キリストとユダヤ教の主流であったファリサイ派との対立は、とうとうイエス・きりストを抹殺してしまおうという段階にまで至っていました。
丁度そのとき、一人の人がイエスのもとへつれてこられたのです。その人は目も見えず口も利けない人でした。イエスがその人をお癒しになると、ものが言え、目が見えるようになったというのです。
マタイによる福音書はその事実を簡単に記したあと、この出来事を巡って、この事実が二つの正反対な受け止め方によって受け取られていたことを紹介しています。
一つのグループは、そこに居合わせた群衆たちでした。彼らはこのイエスの働きを見て「この人はダビデの子ではないだろうか」と言って驚いたのです。「ダビデの子なのではないだろうか」というのは、群衆がただイエスの家系を推測したということではありません。そうではなく、イエスこそ旧約聖書が預言し、約束してきた救い主、メシアではないかという驚きです。イエスこそが神が約束したダビデの末裔から生まれるはずの救い主に違いないという期待です。つまり、イエス・キリストがなさった業を見て、そこに神が遣わされたメシアの姿と見て取ったのです。
もう一つのグループの人たちは、全く同じ出来事を目の当たりにして、全然正反対の解釈をしたのでした。そのひとたちこそ、イエスを殺そうと相談しあったあのファリサイ派の人たちでした。
では、この人たちはイエスのなさったことをどんな目で見たのでしょうか。
彼らによれば、イエスがなさった悪霊の追い出しは、実は悪霊の頭ベルゼブルの力でしたことだというのです。イエスは下っ端の悪霊どもを、悪霊の棟梁の力を借りて追い出したにちがいない。そうでなければ、悪霊など追い出せるはずがないと彼らは出来事を理解したのでした。
非常に面白いことですが、人が信仰に導かれるのは違った出来事を見たからなのではありません。そうではなく、同じ出来事を見て、ある人はそこに神の働きを見出して信仰を持ち、別の人はそれを悪霊の働きだと理解してしまうのです。
さて、イエス・キリストはファリサイ派の人々の主張に対して、どう反論されたでしょうか。
まず先ず初めに、イエス・キリストはファリサイ派の人々の主張が矛盾したものであることを指摘します。もし、ファリサイ派の人々が主張するように、イエス・キリストが悪霊の頭の力を借りて下っ端の悪霊を追い出しているのだとすれば、悪霊の国が内部で分裂し崩壊しつつあるしるしだということになるというのです。悪霊が悪霊を追い出すという作戦は、いくら悪魔の世界といってもありえない愚かな作戦です。
もしかりに、ファリサイ派の主張するようにイエス・キリストがほんとうに悪霊の頭の力を借りて悪霊を追い出しているのだとすれば、いったい、同じように悪霊を追い出していると主張しているユダヤ人の悪霊払いの祈祷師たちの働きはどう理解すべきなのでしょうか。彼らの働きもイエスと同じように悪霊の頭の助けによるものだということになってしまうのでしょうか。それとも自分たちの祈祷師の働きは別だと主張するのでしょうか。ファリサイ派の説明は矛盾してしまいます。
そのような矛盾点を指摘したあとで、イエス・キリストは今彼らの目の前でおこったことを、こう説明されるのです。
「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」
イエス・キリストは、ご自分の働きは、まさに神の国の到来を告げるものであると主張されるのです。イエス・キリストの行くところ、そこに神の国が到来し、実現するというのです。目が見えず、口の利けない人が癒されたのは、まさにそこにイエス・キリストを通して、神の国が到来している証拠だとおっしゃっているのです。
この福音書が記されたのは、まさにイエス・キリストとともに神の国がここに実現していることを告げ知らせるためなのです。イエスとともに神の国がそこに実現していることを見る目こそ、実に幸いな目なのです。