2006年6月1日(木)「関心の違い」 マタイによる福音書 12章9節〜14節
キリスト教会が礼拝を守る日曜日の呼び方に関して、二つの伝統があることはよく知られています。一つはユダヤ教の習慣に倣って、この日がキリスト教の安息日であるという理解する伝統です。もう一つは、この日を主が復活された日ということで「主の日」と呼ぶ伝統です。どちらも古くからの慣わしなので、どちらが正しいとか間違っているとかの問題ではありません。ただ、日曜日が安息日という理解は、その日を聖別して神を礼拝する日という理解から、だんだんと労働を禁じて何かをしない日というところに強調点が移りがちになることは否定できません。安息日が何かをしない日だというのではとても残念な気がしてなりません。
今回もイエス・キリストと安息日に関しての個所です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 12章9節から14節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
きょうの個所でも、先週に引き続いて、ある安息日の出来事が取上げられています。ユダヤ人の会堂で起った出来事です。イエスが礼拝を守るために会堂に入られたとき、そこに片手の萎えた人が一人いました。そこに居合わせた人々は、前回学んだ個所でもイエスに対して安息日の論争を吹っかけてきた人たちと同じファリサイ派に属する人たちでした。彼らはイエスに対して訴える口実を見つけ出すためにとても巧妙な質問を投げかけたのです。
「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」
これは一見、安息日に関わるモーセの十戒をどう理解するのかというとても真面目な議論に感じられます。しかし、この出来事の結末を読めば分かるとおり、彼らには最初から、イエス・キリストの安息日理解など聞くつもりなどなかったのです。
「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」
これが最初からの彼らの目的で、それをどう実現するか、その口実を見つけ出すきっかけに過ぎなかったのです。
そもそも、彼らにとっては、イエス・キリストの教えなどどうでもよかったばかりではなく、その場にいた片手の萎えた人さえも気にはとめていなかったのです。その人のことも、その人の病気のことも真剣に考えようという姿勢など最初からありませんでした。そんなことなど、言ってみればどうでもよいことだったのです。そこに居合わせたのが別の病人であったとしても、彼らが関心を寄せたのは、そのことがイエス・キリストを訴え出る口実になるかどうかという点だけなのです。
安息日を守るのは、もともとは神を礼拝する思いから出てくるものです。神を礼拝する心は、神を愛する心に繋がるものです。従って、安息日をよりよく守ることは、神を心から愛することに繋がってくるのです。
あたかも、このファリサイ派の人々の質問は、神をよりよく愛するための質問であるかのような響きが、表面上はしています。
安息日をよりよく守るために、その日に病気を癒すということが、神を礼拝することの妨げになりはしないか…神を愛することと、人を愛することとが同時に実現できないような場合はどうしたらよいのか、とでも聞きたそうな質問です。
しかし、そもそも、人を愛する愛と神を愛する愛が衝突する場面などあるはずもないのです。
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。(1ヨハネ4:20-21)。
けれども、このファリサイ派の人々がイエスに対して投げかけた質問は、あたかも神への愛と人への愛が衝突し、どちらかを優先させなければならないような事態が起っているかのような前提で、問い掛けられているのです。
ほんとうにそうなのでしょうか。
イエス・キリストはこの欺瞞に満ちた質問にこうお答えになりました。
「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。」
当時の習慣では、家畜が穴に落ちた場合、それが安息日であっても引き上げてやることは安息日違反にはならなかったようでした。家畜でさえそうであるならば、当然、人間はもっと愛されて当然なはずです。なぜなら、神ご自身が隣人を愛することをお命じになっているからです。
そもそも、この問いを出してきたファリサイ派の人々には、この片手の萎えた人への憐みも愛も何もなかったのです。イエス・キリストのこの一言によってそれが暴露されてしまったのです。
さらにイエス・キリストは言葉を繋いでこうおっしゃっています。
「だから、安息日に善いことをするのは許されている。」
そもそも安息日は善いことをなすべき日であって、善いことを禁じる日ではないのです。もちろん、ファリサイ派の人々にはこの片手の萎えた人を治すことはできませんでした。他の日であっても、治すことはできませんでした。しかし、今、目の前に癒す力を持ったイエス・キリストがその場にいらっしゃる時に、その力を妨げることをすべき日ではなかったのです。まして、それを論争の種にすべき日ではなかったはずです。
安息日をどんな関心から守るのか、イエス・キリストの教えと御業から注意深く学びましょう。