2006年5月25日(木)「人の子は安息日の主」 マタイによる福音書 12章1節〜8節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教にとっての安息日は、日曜日であるという理解は古くからありました。ユダヤ教の人々が金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日として守っていたように、クリスチャンにとってはキリストが復活された日曜日こそが安息日であるという理解です。従って安息日である日曜日には、普段の日には許される労働や娯楽も、この日には許されないという考え方が広く受け容れられています。つまり神を礼拝する以外の労働をこの日にすることは基本的には許されないということです。しかし、何かをしてはいけないという点に強調をおきすぎてしまうと、安息日の意味を見失ってしまう危険があります。イエス・キリストが望んでいらっしゃる安息日とはどのようなものだったのでしょうか。きょうの個所からともに考えてみたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 12章1節から8節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」
安息日の規定というのはモーセの十戒の第四戒としてよく知られています。第四戒の規定は他の戒めと比べて、非常に詳しく記されています。安息日の聖別、6日間の労働と7日目の休息、自分ばかりではなく自分の配下にある者たちへの徹底、そして、創造主である神の模範という構成で第四戒は成り立っています。第四戒自体には罰則規定はありませんが、出エジプト記31章14節には、安息日違反は死刑に処せられるという規定があります。それほど重い罰則を伴う戒めですから、ユダヤ人たちもこれをより厳密に守るために、こと細かな規定を定めました。つまり、どういうことをすれば安息日に禁じられている労働に当たるのか、生活の細部にわたって取り決めたのです。
きょうの個所に出てくる弟子たちの行動は、ユダヤ人の規定によれば麦を刈り入れた労働に当たると考えられているのです。もっと詳しく言えば、同じ出来事を記したルカによる福音書6章1節には、弟子たちは麦の穂を摘んで、手で揉んで食べたのですから、刈り入れと脱穀という二重の安息日違反を犯したことになるのです。
もちろん、ユダヤ人たちが安息日の規定を杓子定規に守っていたのではないことは、福音書のほかの記事を読むと理解できます。たとえば、安息日に穴に落ちた羊を助けることは労働には当たらないと考えられていました(マタイ12:11)。あるいは、家畜に水を飲ませるために家畜を解いて連れ出すことも安息日違反とは考えられていなかったのです(ルカ13:15)。
では、空腹を覚えた弟子たちにはなぜ食事をするための労働が許されなかったのでしょうか。それは聖書に模範となるような明確な出来事があったからです。それは神ご自身が荒れ野でイスラエルの民を天からのマナで養われた時のことでした。彼らに安息日にマナを集める労働をさせないようにと、わざわざ前日には倍の量のマナを与えたのでした(出エジプト16章)。つまり、安息日に食べ物を用意する必要があることは、前々から分かりきっていることなのですから、それができなかったのは明らかに弟子たちの不注意であるということなのでしょう。ユダヤ人の基準からすれば、弟子たちの取った行動は弁解の余地がないほど明白に安息日の規定に反する行いだったのです。
では、イエス・キリストは弟子たちのこの行動をどうご覧になり、ファリサイ派の人々にどう反論されたのでしょうか。
まず、イエス・キリストは旧約聖書の出来事を引用されます。そこにはダビデ王が取った行動が記されています。それはダビデ王とその供の者が空腹だったために、祭司以外は食べてはならない供え物のパンを食べたというサムエル記上21章に記されている事件です。当然、神の律法を厳密に当てはめるとすれば、ダビデの取った行動は神の掟に反する行動です。予めパンを用意しておけば、問題は避けられたはずですし、他をあたるということもできたはずです。けれども、現実には予めパンを用意しておくこともできなかったのですし、他をあたるということもできなかったのです。
イエス・キリストはこのダビデの行動が許されるのは、神の憐みによるものだと考えていらっしゃるのです。おそらく、ユダヤ人たちもそのように聖書を読んで理解していたことでしょう。けれども、ファリサイ派の人々は、キリストの弟子たちに関しては、同じように憐みの心で接することができなかたのです。ファリサイ派の人々の憐みの心のなさをまずイエス・キリストは指摘されているのです。ファリサイ派の人々はキリストの弟子たちが何故、予め食事を用意しておくことができなかったのだろうかという同情や憐みの気持ちよりも、弟子たちを安息日違反で非難する思いしか抱いていなかったのです。
さらに、イエス・キリストは「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない」という律法の規定を持ち出して、弟子たちを弁護します。確かに神殿で働く祭司たちの働きを、禁じられた労働だというならば、安息日には礼拝を守ることすらできなくなってしまいます。それは今日「教会の牧師が日曜日に説教するのは仕事だから、安息日にはそのようなことはすべきではない」とは誰も考えないのと同じです。では、なぜ、キリストはそんなことを引き合いに出して弟子たちを弁護したのでしょうか。それはイエス・キリストが明らかに弟子たちの手による福音の宣教の働きを、祭司の働きと同列においていたと言うことでなければ説明がつきません。神に仕える祭司に安息日がないのと同じように、福音を述べ伝えるキリストの弟子たちにも、安息日の規定が及ばないし、及ぶべきではないのです。
イエス・キリストは「神殿よりも偉大なものがここにある」とおっしゃいます。神殿に仕える祭司でさえ、安息日の規定が当てはまらないのだとすれば、まして、神殿よりも偉大なお方に仕える者には、そのような安息日の規定を杓子定規に当てはめることができないのは当然です。 イエス・キリストは神殿よりも偉大なお方です。安息日の主であるお方なのです。