2006年5月18日(木)「わたしのもとに来なさい」 マタイによる福音書 11章25節〜30節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
教会の看板にはいろいろな聖書の言葉が添えられていますが、中でもよく使われているのが「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」というキリストの招きの言葉です。この言葉を目にしてどれほど多くの人が教会の門をくぐったことでしょうか。
きょう取り上げようとしている聖書の個所は、まさにこのキリストの言葉が記されている個所です。
この言葉がいつどんなときに語られたのか、ご一緒に学びましょう。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 11章25節から30節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
今まで3回にわたってマタイによる福音書から学んで来ました。そこには福音が十二人の弟子たちによって広まっていった結果、人々がどんな反応を示したのかということが記されていました。牢獄にいた洗礼者ヨハネは、このイエスこそ自分の後からおいでになるメシア、キリストであると確信しました。しかし、他の者たちはまるで広場で遊ぶ子どもたちのように、洗礼者ヨハネが禁欲的な生活をしていると「悪霊にとりつかれている」と言い、イエスが飲み食いしていると「大酒のみの大食漢だ」と好き勝手なことを言っては、神の招きを真摯に受け止めようとはしなかったのです。そのように神の招きにもかかわらず悔い改めることをしなかった町の代表が、先週学んだコラジンやベトサイダや、カファルナウムの町だったのです。
そういう現実を前に、声をあげられたキリストの言葉がきょう先ほどお読みした個所です。
イエス・キリストはおっしゃいます。
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」
同じ福音を耳にしながら、どうしてイエスの活動の本拠地であったカファルナウムの人々が悔い改めて信じなかったのか、また、ファリサイ派やサドカイ派のような地位も教養もある人々が信じなかったのか、これは不思議なことです。むしろ、それらの人々からは蔑まれていた徴税人や罪人と呼ばれる人々がイエスの回りには集まってきていたのです。
天地を造られた創造主である神は、あらゆるものの父なるお方です。だれも、このお方によって教えていただかない限り、福音を悟ることはできません。知恵ある者も賢い者も、ただそれだけでは神の深い知恵と福音を悟ることはできないのです。神が特別に示されるかぎりにおいて…キリスト教ではそれを神の啓示と呼びますが…その啓示があって初めて知ることができるのです。
そして、天の父なる神が、知恵ある者や賢い者には神の啓示を悟らせないようにと隠してしまわれ、かえって幼子のような者にお示しになったこの現実を、イエス・キリストは「御心に適うことであった」とおっしゃっているのです。神はこの世の知恵ある者の知恵を無にし、かえってこの世では身分の低い者、弱い者をお選びにおなって福音をお示しになることをよしとされたのです。
しかも、父なる神は御子イエス・キリストにすべてをお委ねになって、御子イエス・キリストが示そうと思う者たちに、父なる神を知る知識をお与えになったのです。このことはキリストというお方を抜きにしては、正しく神を知ることはできないということなのです。ヨハネによる福音書は「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)と語っていますが、御子イエス・キリストを通してだけ、神を正しく知ることができるのです。
さて、この全権を委ねられた、父なる神とは特別な関係の神の御子であるキリストがわたしたちを招いていらっしゃるのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
疲れた者、重荷を負う者にイエス・キリストは呼びかけて、3つのことを命じています。「わたしのもとに来なさい」「わたしのくびきを負いなさい」「わたしに学びなさい」。
イエス・キリストはそれに伴う約束として「わたしが休ませてあげよう」「あなたがたは安らぎを得られる」とおっしゃっています。休みを与え、安らぎを得させるのなら、「わたしのくびきを負いなさい」というのはちょっと変な感じがするかもしれません。くびきを負うというのは、束縛や労働をイメージする表現だからです。
しかし、くびきを共にするイエス・キリストは柔和で謙遜なお方なのです。へりくだってわたしたちと共に歩んでくださるお方、わたしたちの労苦をすべてご存知である方であるからこそ、キリストのくびきは負いやすく、荷は軽いのです。キリストとくびきを共にするということは、わたしたちがキリストのくびきを背負うのではなく、キリストがわたしたちのくびきを背負ってくださるのです。くびきを共にしてくださるキリストに自分の身を委ねることです。
キリストのもとに来て学び、キリストとくびきをともにするとき、ほんとうの安らぎを得ることができるのです。