2006年5月11日(木)「まことの悔い改めへの招き」 マタイによる福音書 11章20節〜24節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
長年、車に乗っていると、方向感覚がついてくるものです。日が照っていれば、太陽の位置や家の並び方から、どっちの方角を向いて走っているのか、大体検討がつきます。けれども、時々、初めての土地に行って道を間違えてしまうことがあります。そのとき、どこかでUターンして、間違った位置に戻れば済むのですが、変な自信が邪魔をして、どこか先へ行っても元の道に戻れると信じてつい運転を続けてしまうことがあります。それがとんでもない時間のロスになったり、全く目的地には行き着かない結果になってしまうことがあるのです。
人生も間違いに気がついたときに、変な自信が邪魔をすると、正しい道に戻るチャンスを失ってしまいます。
きょう取り上げようとしている個所は、悔い改めない人々を強い言葉で非難するキリストの言葉です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 11章20節から24節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」
イエス・キリストは十二人の弟子たちをお遣わしになって、神の福音を宣べ伝えさせました。その伝道の結果、様々な反応があったことを今まで2回に分けて学んできました。きょうはそうした反応の中で、悔い改めない町々に対するイエス・キリストのお言葉から学びたいと思います。
先ず初めに、ここに記されている厳しいお言葉を、イエス・キリストが何故おっしゃられたのか、ということから考えてみたいと思います。もし、ここに名前を上げられている町の住民がこぞって救いがたいのだとすれば、そもそもこんなことをおっしゃりはしなかったでしょう。ほんとうに救われないのであれば、何も言う必要はないのです。そもそも、町を擬人化して町の名前を挙げて非難しているというのも、随分回りくどい言い方です。十把一絡げにして裁きを宣告してしまってもよいほど、一人残らずその町の住人は罪深いということでしょうか。
むしろ、このイエス・キリストの言葉にこそ、まことの悔い改めへの招きを見て取るべきなのです。最終的な裁きの言葉ではなく、最終的な悔い改めのチャンスを与える言葉として読むべきなのです。もしそこに名前が挙げられた町の住民であることで裁きが下るのだとすれば、悔い改めて福音を受け容れ、町から出るチャンスは誰にでも残っているのです。裁きの宣告としてではなく、悔い改めへの招きの言葉として聞くべきなのです。
そして、そのようなキリストの言葉が後の時代の者たちのために福音書の中に残されているのは、この言葉が、ただ単にコラジンやベトサイやカファルナウムの町々のためだけではなかったからです。イエス・キリストの福音を聴く者は皆、まことの悔い改めのチャンスが与えられているということなのです。いえ、まことの悔い改めのチャンスをそれらの町々のように軽んじてはいけないということなのです。
さて、名前がコラジンとベトサイダという町は、この福音書ではここにしか名前が出てこない町です。この福音書の中では後にも先にもこれらの町に福音が伝えられたという記録はありません。もちろん、だからといって福音が伝えられたかったわけではないはずです。いちいち記録に残すほどでもない小さなこれらの町でも確かに福音が伝えられ、そこでは数多くの奇跡の行われたのです。小さな町だからといって神はこれらの町を軽く扱ったりはなさいません。確かにこれらの町でも数多くの奇跡を行い、人々を救いへと招いていらっしゃったのです。だからこそ、求められている悔い改めも、他の町と変わらないほどの重さなのです。
他方、これらの町と比較されているティルスやシドンは、聖書の中ではとても有名な町です。物質的にも繁栄した異邦人の町として知られた場所です。ユダヤ人なら誰が考えても、ティルスやシドンの罪の方が大きく、救いがたいと思っていたことでしょう。
洗礼者ヨハネはかつて、悔い改めの洗礼を受けようとしてやってきたファリサイ派やサドカイ派の人々を叱責して「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってみるな」と言いました。ティルスやシドンに比べれば、コラジンとベトサイダは何のとりえもない町ですが、それでも「我々の父はアブラハムだ」という自負心はあったことでしょう。しかし、そのようなプライドはこの際何の役にも立たないのです。
カファルナウムとソドムの町が対比されているのも意外です。カファルナウムはイエスの活動の本拠地です。ペトロやアンデレがそこで暮らしていた町です。しかし、イエスがお住まいになり、活動の拠点としたというだけで、そこの住人が自動的に救いに入るというわけではないのです。どんなに有名な俳優や伝記に残るような偉人を排出したからといって、その町の住人が偉くなるわけではないのと同じです。「天にまで上げられるとでも思っている」とすれば、それはとんでもな勘違いの上に成り立っている誤解です。
他方、そのようなカファルナウムと比較されているのはソドムの町です。ソドムといえば旧約聖書ではとんでもない悪の町として有名な町です。その住民は腐れきっていて、かつて神が硫黄の火を降らせて滅ぼし去った町です。もし、キリストの奇跡の業がこのソドムの町で行なわれていたとするなら、彼らは悔い改めて無事でいることができたというのです。
このキリストの言葉はカファルナウムの人々にとっては侮辱とも聞こえたことでしょう。しかし、天にまで上げられるとでも思っているカファルナウムの人々が、悔い改めて、陰府にまで落とされることをまぬかれるなら、このキリストの言葉はけっして厳しいばかりの言葉ではないのです。
初めにも言いましたが、これらの言葉が語り継がれているのは、他でもないわたしたち一人一人が謙虚になってキリストの福音の前に悔い改めをなすためなのです。キリストはこの言葉を聞く一人一人をそのように招いていらっしゃるのです。