2006年4月27日(木)「イエスこそ来るべきお方」 マタイによる福音書 11章1節〜6節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 人がキリスト教を信じない理由というのは、いろいろあります。その一つの理由は、キリスト教という宗教が自分が期待してるものとは違っているからというものです。たしかに、だれでも自分の理にかなったものを受け容れ、そうでないものは退けてしまいます。それはある意味では当たり前のことです。人には判断力があるからこそ、あるものを受け容れ、他のものを退けるということがあるのです。しかし、その期待や判断がいつも正しいかというとそうではないところに、問題が起るのです。

 キリストから遣わされていった十二人の弟子たちの活動の結果、人々はどのような反応をしめしたのでしょうか。今週から新しい章の学びに入ります。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 11章1節から6節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

 前回までマタイによる福音書の10章を学んで来ました。そこには十二人の弟子たちを伝道に派遣するに当たって、イエス・キリストがなした様々な教えが記されていました。その教えを受けた弟子たちは、神の国の福音を携えて伝道の旅に出て行ったのでした。

 少しおさらいになりますが、マタイ福音書10章の初めの部分をもう一度見ておきたいと思います。まず、10章1節でキリストは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになります。そして、続く5節で「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた」と記されていて、それ以下10章全体は弟子を派遣するに当たってのイエスの教えが記されることになります。そして、先ほども言いましたが、その教えを受けて、弟子たちはいよいよ出て行くことになるのです。

 さて、十二人の弟子たちが宣教活動をした結果を受けて、どのようなことがおこったのかを記しているのが11章です。きょう取り上げた個所には、洗礼者ヨハネの弟子とイエスとの問答が記されています。

 洗礼者ヨハネのことについては、この福音書の中では3章にイエスの先駆者として登場し、4章で投獄された事実が告げられたきり、すっかりこの福音書から姿を消していました。のちに14章にもう一度登場しますが、そのときには投獄されたいきさつと処刑されたいきさつが記されます。

 その洗礼者ヨハネが領主ヘロデによって投獄されていた獄中から、自分の弟子を遣わして、イエスにこのように尋ねたと記されています。

 「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

 このヨハネの質問が、いったい何を意味しているのか、昔から様々な議論を呼んで来ました。マタイ福音書の3章によれば、ヨハネは自分の後から来るメシアについて人々に教えていました。そして、イエスがヨハネから洗礼を受けようとしたとき「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と言って一旦は洗礼を授けることを拒んだのでした。その言葉は、イエスこそ自分の後からおいでになるはずのメシアであるという確信を言い表したものでした。マタイ以外の福音書の証言を合わせ読んでも、やはりこのヨハネがイエスをメシアと信じ確信していたという事実は疑いようもありません。

 ところが、きょうの個所を読むと、いかにも長い獄中生活のためにすっかり確信が揺らいでしまったかのような印象を受けなくもありません。イエスの弟子たちが病人を癒したり神の国の福音を伝える様子を耳にして、一旦はイエスを真のメシアであると信じて来たその確信が揺れ動いてしまったとでもいうのでしょうか。確かにヨハネが伝えた「来るべきメシア」は、良い実を結ばない木を切り倒して火で焼いてしまう恐ろしい裁き主のイメージでした。ですから、イエスの活動が憐みに満ちた様子なのを見て、自分のイメージしたメシア像との食い違いに心揺らいでしまったとも読めなくはありません。

 実はこの個所はギリシャ語の原文で読む限り、必ずしも二つの疑問文と取る必要はないのです。前半の「来るべき方は、あなたでしょうか」という文章は「来るべき方は、あなたです」という肯定の文にも読むことができます。実際、ギリシャ語では書かれた文字で見る限り、疑問文と肯定文を区別することはできません。疑問文を識別する記号がないわけではありませんが、古い写本にはそれが記されてはいません。

 もし、前半を肯定文と理解すれば、後半は普通の疑問文ではなく、反意を表した疑問文と取らざるを得なくなります。

 「来るべき方は、あなたです。それとも、ほかの方を待たなければならないというのでしょうか。いや、そんなはずはない」…ヨハネはこういいたかったのでしょう。

 それに対するのイエスの答えは、イザヤ書の35章5節に預言された事柄を思い起こさせる言葉でした。そこには終わりの日におこる出来事がこう記されています。

 心おののく人々に言え。 「雄々しくあれ、恐れるな。 見よ、あなたたちの神を。 敵を打ち、悪に報いる神が来られる。 神は来て、あなたたちを救われる。」

 そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。 口の利けなかった人が喜び歌う。

 つまり、イエス・キリストは洗礼者ヨハネの言葉を肯定するかのように、イザヤ書に記された来るべきメシアの時代についての預言を引用されたのです。つまり、弟子たちの働きを通して、ヨハネは一層自分が確信してきたこと、つまり、イエスこそが来るべきメシアであることを確信したのです。

 そのメシアを信じるようにとマタイによる福音書はわたしたちを招いているのです。