2006年4月13日(木)「敵対させるため?」 マタイによる福音書 10章34節〜39節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
番組に寄せられる悩み事の手紙の中で、今でも多いのは家族や親戚の反対で、キリスト教の信仰に足を踏み入れることが難しいというものです。いざ、教会へ行こうとすると、家族から何となくチクチクと嫌味を言われる。あるいはあからさまな反対にあう…こんなことは決して百年前の日本の話ではないのです。まして洗礼を受けようともなると家族・親戚からの風当たりは一層激しくなるというものです。それは決して日本という国が特殊だからなのではありません。イエス・キリストご自身がそのことを予め語っておられるのです。きょうはそのイエス・キリストの言葉からご一緒に学んでいきたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 10章34節から39節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
数あるイエス・キリストの言葉の中でも、きょうの言葉ほど難しい言葉はないかもしれません。もちろん、使われている単語が難しいとか、文章が複雑すぎて理解しにくいという理由で難しいのではありません。言っていることは単純明快なことなのですが、イエス・キリストというお方がやってこられた目的から考えるとすんなりとは受け止められない内容なのです。
「平和ではなく剣をもたらすためにやってきた」とは一体どういうことなのでしょう。そもそも、旧約聖書の預言によれば、来るべき救い主であるメシアは「平和の君」と唱えられるお方でした(イザヤ9:5)。実際イエスがお生まれになったとき、天の軍勢は神を讃美して「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)と歌いました。イエス・キリストご自身も山上の説教の中で「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」とおっしゃっています(マタイ5:9)。そうおっしゃるイエス・キリストの口から「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」という言葉を聞けば、誰でも耳を疑ってしまうことでしょう。確かに、この言葉だけを前後の文脈から切り離して聞くと、とても恐ろしい言葉のように思えてきます。
しかし、もう少し先を読んでいくと、イエス・キリストがおっしゃろうとしていることの意味が、だんだんと明らかになってきます。ここでイエス・キリストが用いている「剣」という言葉は、文字通りの意味で「剣」ではありません。家族の中に起る敵対関係をもたらすものを「剣」と呼んでいることが分かります。家族団欒の場がたちどころに敵対しあう場と変わってしまうというのです。
もっとも、それが文字通りの剣ではないとしてもそれも受け入れがたい言葉のように聞こえます。家庭は最小単位の社会だといわれています。その家庭に不和が生じ、家族の中に敵対関係が生じたとしたら、社会にも影響が出てきてしまいます。そんなことをもたらすためにキリストがやってきたのだとすれば、だれも、イエス・キリストを歓迎しないでしょう。
実は、ここでイエス・キリストがおっしゃっている言葉は旧約聖書の預言書ミカ書7章を背景にお語りになった言葉だといわれています。そこに記されているのは腐敗しきったイスラエル社会に対する審判の言葉です。役人も裁判官も報酬を目当てに語り、名士も私欲のために働き、最善のものでさえ茨にも劣る社会だったのです。そのような社会に対する審判として、「息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」(ミカ7:7)という事態が起るのです。つまり、罪と腐敗の結果として、このような事態が起ると預言者ミカは神の審判の日を預言しているのです。そういう意味では、この家族の中でおこる敵対関係は、決して積極的にもたらそうと意図したものではありません。人間の罪の結果としてもたらされるものなのです。
ここでは、その言葉を受けて、その預言者ミカの言葉を背景としてイエス・キリストはお語りになっていらっしゃるのです。キリストはまさに審判をもたらす者として立っておられます。しかし、もたらす審判はあくまでも人間の罪の結果なのです。そういう意味で、家族の中で起る敵対関係の責任をキリストに、押し付けることはできません。
たしかに救い主であるキリストは平和の君にほかなりません。しかし、その平和とは罪に群がる者たちがお互いにお互いの罪に目をつぶって出来上がるような見せ掛けの平和ではないのです。そのような罪ある人間の危うい平和に終わりをもたらし、まことの平和を打ち立ててくださるのがイエス・キリストなのです。人間が心に描く淡い平和ではなく、罪に終止符が打たれ、神との間でまことに成立する平和こそ、キリストがもたらそうとしている平和なのです。
さて、ここでは罪と腐敗がもたらす家族の混乱の中で、キリストに従う信仰の決断が促されています。
「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」
このキリストの言葉もまた、これだけを切り離して考えるべきではないでしょう。父と母を敬うことはモーセの十戒に教えられていることです。キリストはその戒めをどうでもよいこととはおっしゃっていないのです。神を愛し、隣人を愛することは、キリストがもっとも大切にしたことです。ここで問題となっているのは優先順位の問題なのです。罪ある人間の世界では、父や母を大切にし、隣人を愛しているといいながら、神への畏れを欠いているために、結局は自分自身が最優先されてしまっているのです。
自分の十字架を担ってキリストに従う者だけが、つまり、神への愛を最優先するものが、神をも人をも愛する生き方を実現することができるのです。キリストはそのような世界を実現するために弟子たちを派遣し、人々を招いていらっしゃるのです。