2006年4月6日(木)「キリストを告白する」 マタイによる福音書 10章32節〜33節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしが信仰を持ったばかりの高校生時代、迫害に遭ったらどうなるだろうと空想をめぐらせたことがありました。踏絵を踏まされるようなことになったらと、いろいろ考えたものでした。同じ高校生のクリスチャン仲間ともそんな話題で夜を徹して話し込んだこともありました。今にして思えば、随分悲観的な空想だったように思います。もちろん、迫害のことなどどこかにいってしまったかのように無防備でいることはできません。しかし、迫害が起ることをビクビクと恐れて、あれやこれやと考えあぐねているだけでもいけないのです。

 今、十二人の弟子たちを伝道へと派遣するイエス・キリストの教えから学んでいますが、そのイエスの言葉が言おうとしていることに、まっすぐ耳を傾けていきたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 10章32節33節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

 この言葉は、十二人の弟子たちを派遣するに当たって、イエス・キリストがおっしゃった様々なことがらの一つです。今まで学んできたように、伝道活動へと弟子たちを派遣されるイエス・キリストは、予想される様々な困難を弟子たちに予告されました。みんながみんな、キリストの教えを歓迎してくれるわけではありません。かといって、ただ無関心でいてくれるというのでもありません。キリストの福音を伝える弟子たちはユダヤの地方法院に引き渡されたり、ユダヤ人の会堂で鞭打たれたり、ついには領主たちの前に引っ張り出されることさえ起るのです。その上、キリストは「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」(10:22)とまでおっしゃるのです。

 しかし、先週も学んだとおり、待ち受けている様々な困難が大きいにもかかわらず「人々を恐れてはならない」とイエス・キリストはおっしゃるのです(10:26)。恐れてはならないのは、ほかにもっと恐れるべきお方がいらっしゃるからです。そして、そのもっとも恐れなければならないお方、聖書の神は、同時に恵み深いお方でもあられるのです。その神は派遣されていく弟子たちに絶えず関心を持ちつづけてくださるお方です。一羽の雀にさえ関心を寄せられる神が、弟子たちにもっと大きな関心を注いでくださっているのです。だからこそ、人々を恐れてはならないとイエス・キリストはおっしゃったのです。

 そのことを受けて、きょうの個所では「だから」と続きます。

 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」

 天の父なる神は派遣されて行く弟子たちに最大の関心をはらっておられます。弟子たちがその務めを全うして、救い主であるキリストを宣べ伝え、キリストを告白することを願っておられます。そのために彼らを派遣し、そのために彼らを一羽の雀にもはるかにまさって守って下さっているのです、だからこそ、たとえ人々がこの地上の法定で彼らを鞭打ったり裁いたりしたとしても、キリストを仲間として告白しているがゆえに、彼らは神の御前で仲間として受け入れられるのです。

 大切なことは神のみ心どおりに、神の助けに導かれてキリストを告白することなのです。そのように神が助けてくださるので、キリストを告白することができるのです。

 イエス・キリストが十二人の弟子たちを派遣するに当たって彼らに特別に告げ知らせたかったことは、迫害に備えて覚悟を決めることではなかったのです。わたしたちの不甲斐ない勇気にわたしたちのすべてが掛かっているのでありません。神の力と恵みこそがわたしたちをキリストを告白する信仰へと導き留まらせるのです。そして、その恵みにとどまる者が迫害の中でもキリストを告白し、最後の審判のときにキリストがわたしたちの証人として立ってくださり、わたしたちをご自分の仲間であると神の前で証言してくださるのです。

 確かに、キリストはその直後で「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」ともおっしゃっています。その言葉は確かにわたしたちに対する警告とも取れます。もし、キリストのうちに留まらず。キリストを告白しないならば、最後の審判の席でも同じように、キリストから知らない者のように扱われてしまうのです。だから、迫害にも屈せず頑張りなさいと、イエス・キリストはここで言おうとしているのではありません。もしそうだとしたら、それまでイエス・キリストがおっしゃってきたことを台無しにしてしまうのです。イエス・キリストは弟子たちを困難が予想される狼の群れの中に、無防備な羊のように派遣されます。それが可能なのは、弟子たちに力があるからではなく、守ってくださる神に力があるからなのです。

 この神の力と恵みに頼るならば、だれでもがキリストのうちに留まりつづけることができるのです。たとえ迫害の嵐が吹き荒れたとしてもキリストから切り離されることはないのです。そのことを心に留めていくようにと、キリストは弟子たちを励ましながら派遣しているのです。

 「人々の前でわたしを知らないと言う者」とは弟子たちのことではなく、弟子たちの言葉に耳を傾けようともしない人々のことなのです。この人々を恐れ、神から目をそらしてしまうならば、たちどころにわたしたちも神の恵みを台無しにしてしまうことになるでしょう。そうならないために、キリストは弟子たちを励ましながら伝道の場へと遣わしてくださっているのです。