2006年3月23日(木)「狼の群れのような中に」 マタイによる福音書 10章16節〜25節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教の教えが本当に素晴らしいものであるならば、誰もが喜んでそれを受け取ってくれるはずだろう…そうクリスチャンとして考えるのはある意味でとても素直な物の考えかたです。しかし、実際に伝道の働きについてみると、そう簡単には物事が運ばないことにすぐ気がつきます。思いもかけない人から思いもかけない抵抗にあうことがあります。しかし、考えてもみれば、それは当然のことかもしれません。キリストの教えはその人の生き方のまさに根幹に関わっています。ですから、そんな大事な問題を、人々がいとも簡単に受け入れたりするならば、その方がかえって不思議なくらいです。
しかし、だからといって伝道の働きをストップさせてしまえば、キリストの教えは少しも広まっていくことがなくなってしまいます。
弟子たちを派遣するに当たって、イエス・キリストは予想される事態と対処の仕方を予め教えてくださっています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 10章6節から25節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」
イエス・キリストは弟子たちを遣わすに当たって、その遣わされて行く場所が、狼の群れのようなところだとおっしゃいます。いずれにしても弟子たちは伝道に関しては初心者です。イエス・キリストと共に寝起きを共にしたからといって、そんなにすぐには上手な宣教師になれるはずはありません。それならば、もっと優しい環境の場所に弟子たちを遣わせばよいのに、と思うかもしれません。もし、そういう場所があるなら、とっくにそういうところに弟子たちを派遣していたことでしょう。
「狼の群れに羊を送り込む」というのはどの時代、どの場所にも避けられないのかもしれません。そもそも、イエス・キリストが十二人の弟子たちを派遣するきっかけとなったのは、群衆が飼う者のいない羊のようであったからです。飼う者がいない羊は、猛獣の餌食になっているのです。だからこそ遣わされて行く弟子たちは狼の群れの中に入っていくようなものなのです。しかも、彼ら自身も完全武装した救出部隊なのではなく弱い羊なのです。だからこそ、用意周到でなければならないのです。
そこでイエス・キリストは「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と命じています。旧約聖書の創世記3章によれば、蛇は「野の生き物のうちで最も賢い」と言われています。賢さをどう用いるかで、それはずる賢さともなります。創世記3章に出てくる蛇の賢さは、ずる賢さでした。しかし、イエス・キリストが弟子たちに求めているのはずる賢さではありません。巧妙な手口で伝道しなさいと言っているのではありません。
イエス・キリストは弟子たちに「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」と勧めています。それこそ蛇が危険を感じて逃げていくように、逃げることも賢さだと教えているのです。ただ、一箇所で頑張るだけが正しい賢い生き方ではないのです。その点では蛇の賢さに学ばなければならないのです。
けれども、同時にイエス・キリストは「鳩のように素直になりなさい」とも命じています。蛇のように賢いか、鳩のように素直であるか、どちらか選びなさいというのではありません。蛇のように賢く、同時に鳩のように素直でなければならないのです。
「素直」といえば聞こえがいいかも知れません。しかし、旧約聖書のホセア書7章11節には、鳩のようだとは、愚かで悟りがないことの譬えに用いられています。鳩のように素直であれというのは、蛇の賢さとは正反対の性質なのです。愚かでお人よしと思われるくらい、単純で素直であることが、求められているのです。
蛇のような賢さと鳩のような素直さは、同時に持つことができるような似たり寄ったりの性質ではなく、むしろ、正反対のものが同時に求められているのです。
イエス・キリストは弟子たちが直面する事態として、地方法院に引き渡されて、会堂で鞭打たれたり、イエスのために総督や王の前に引き出されて弁明しなければならない事態が起ると予告しています。そうなったとき、弟子たちは「何をどう言おうかと心配してはならない」といわれています。そんな事態に直面して平然と落ち着いていられるとすれば、それはまさしく鳩のように素直で単純な心を持っていなければできないことです。
イエス・キリストは「そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」とおっしゃっています。その約束を鳩のような素直さで受け止め、慌てふためくことなく聖霊が語る言葉を与えてくださるのを待つのです。
イエス・キリストは遣わされる弟子たちの身の上に降りかかる出来事を決して曖昧にはされません。弟子たちはイエス・キリストと共に今まで過ごして、そのことを既に実感していたはずです。確かに、一方ではキリストに対する熱狂的な歓迎のムードが民衆のうちにはありました、。しかしそれと同じくらい、いえ、それを上回るくらいに、イエス・キリストに対する反感もあったのです。師であるキリストがそうであるとすれば、その弟子たちはなおのことであるとイエスはおっしゃいます。そうであればこそ、いっそう弟子たちには、蛇のように賢く、鳩のように素直になることが求められているのです。