2006年3月16日(木)「十二弟子の派遣」 マタイによる福音書 10章5節〜15節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしがまだ神学生だったころ、「伝道者の心得」と題したお話を先輩の牧師先生から何度となく聞かされたものでした。その教えの中にはきっとずっと先代の牧師たちから連綿と受け継がれてきたものもあるのだと思いました。

 きょう取り上げようとしている個所には、12人の弟子たちを派遣するに当たって、イエスが教えた伝道者の心得が記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 10章5節から15節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスはこの12人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

 先週はイエスが選んだ12人の弟子たちの名前のリストを取り上げました。今週は、その弟子たちを派遣するに当たって、イエスが命じた教えを取り上げようとしています。そこでこのイエスの教えに関して、若干の注意が必要だと思われます。というのは、ここでイエスが教えている事柄は、どの時代にも普遍性がある伝道者の心得であるのか、という問題です。

 まず、最初にイエスが述べていることを見ると、どう考えても、普遍的な教えとは思えません。それは復活の後にイエスが弟子たちを派遣する言葉と明らかに違っているからです。マタイによる福音書の最後の章に、いわゆる宣教命令として知られている言葉があります。それによれば弟子たちは出て行って「あらゆる国民をイエスの弟子とする」ことが命じられています。ところが、きょう取り上げている教えには「あらゆる国民」ではなく、その行き先がイスラエルの家に限定されています。「異邦人のところに行くな」と命じられているのです。新約聖書の「使徒言行録」には後の時代の弟子たちの宣教の様子が記されていますが、彼らはサマリアや小アジア、さらにはヨーロッパ世界にも足を踏み入れて、ユダヤ人ばかりではなく異邦人たちにも福音を述べ伝えたのです。そして、それが神の御心であると確信していたのです。

 ですから、少なくとも伝道の対象に関して言えば、きょう取り上げる個所でイエスが語っていることは、どの時代にも共通した普遍的な教えではなく、イエス・キリストがまだ地上を歩まれていた時代に限られてのことなのです。今は復活のキリストの命令に従って、すべての国の民がその伝道の対象なのです。

 さて、イエスは「天の国は近づいた」というメッセージと共に病気の癒しや悪霊を追い出すことも宣教の働き一環に加えました。先週学んだとおり、そのためにイエスは12人の弟子たちに特別に「汚れた霊に対する権能をお授けになった」と記されています。そのことがそのまま現代の伝道者・宣教者にも求められているのかというとそうではないでしょう。聖書が完成した時点で、奇跡などの特別な聖霊の働きは完結したと理解されるからです。聖書の中に神の国の到来の事実とそのしるしとが十分に描かれていると考えるからです。もちろん、今も特別な聖霊の働きがあることを信じている人がいることも知っています。いずれにしても、イエスの弟子たちには病気の癒しや悪霊を追い出すことが求められていました。それは今までの学びで何度か触れたとおり、それらの奇跡は神の国の到来を証するしるしだからです。

 12人たちは「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」と命じられています。着の身着のままで伝道の旅に出なさいということなのでしょうか。決してそうなのではありません。そうではなく、その直後に言われている通り、「働く者が食べ物を受けるのは当然」だからです。自分自身の生活のために他に職業を持って備える必要はないのです。しかし、それは誰かが自分の面相を見てくれる、という安易な考えに基づいているのではありません。神がその必要を満たしてくださることを伝道者は身をもって学ぶのです。必要な時に必要な物が満たされるというのは、伝道者だけが経験することができる素晴らしい恵みです。この恵みをいただくからこそ自分の生活のことで心を奪われることなく、御言葉の宣教に専念することができるのです。

 もちろん、後の伝道者パウロのように、あるときには進んで働きながら伝道をした人もいました。しかしそれは信仰の弱い信者たちをつまずかせないという目的があったからです。

 派遣された12人たちは、一つの村や町に入ったならば、一人の人の家に留まって、あまり家から家へと渡り歩かないように命じられています。しかし、その前に、遣わされた弟子たちは留まるにふさわしい家はどこなのか、よく調べるように命じられています。その具体的な方法は記されてはいませんが、とにかくふさわしい家を見つけ出し、旅立つ時までそこに留まってそこを拠点として伝道をするように命じられています。弟子たちが去ったとしても、そこが伝道の拠点となるからです。

 そして、何よりも先ず最初に、その家の平安を祈ることが命じられています。確かに、平安や平和を意味するヘブライ語のシャロームは挨拶の言葉でした。しかし、イエスがここで命じているのは、ただ、挨拶をしなさいという常識を教えているのではないでしょう。そんなことは教えられなくても、弟子たちはシャロームという挨拶の言葉ぐらいはいえるはずです。そうではなく、ここでは単なる挨拶の言葉を交わすことではなく、その家の人々の平和と平安を心から願うのです。伝道とは、結局は論戦をはって相手を説得したりねじ伏せたりすることではないのです。神との関係を回復し、神との間、人との間に平和を願うことです。もし、平和と平安を願うことを忘れてしまったのでは、福音など語ることすらできません。神との平和、人との平和を願い、福音を語ることが大切なのです。