2006年2月16日(木)「命の君」 マタイによる福音書 9章18節〜26節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 去年の話ですが、小中学生を対象に「生と死に関する意識調査」が行なわれました。その調査の対象となった小中学生たちが、「死んだ人が生き返ると思うか」という質問に対して、「そう思う」と答えた人が全体の一五%もいました。この調査の結果はマスコミや評論家たちによって、様々な興味から取り上げられました。もちろん、死者の復活を説くキリスト教会が、この意識調査を手放しで喜べるはずはありません。何か今までとは違った死生観を子どもたちが持ち始めていることに、ある種の危惧感さえ感じます。

 また、別の話ですが、幼稚園の園児が先生にこんなことを言ったという話を聞いたことがあります。それは園児が飼っていた動物が死んで動かなくなったというのです。それで、その園児は幼稚園の先生に電池を取り替えて欲しいと願ったそうです。このエピソードも死生観を巡って、何かおかしなものが子供たちの中に入り込んでいることを危惧させるようなお話です。

 さて、きょう取り上げようとしている個所は。人の「命」に関わる大切な事柄を扱った個所です。この個所を通して、イエスはご自分が命の君であることを示してくださっているのです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 9章18節から26節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。

 すると、そこへ12年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。

 イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。このうわさはその地方一帯に広まった。

 きょうの聖書の個所は先週取り上げた個所と重複しています。先週もお話しましたが、きょうの個所は一つのストーリーに別のストーリーが入り込むような形になっています。もちろん、わたしたちの人生は互いに交差する時もわるわけですから、むしろ、この物語のように入り組んでいることの方が自然かもしれません。

 一人の父親が娘の死に直面し、イエス・キリストに助けを求め来ることから始まります。「死」とは先ほど番組の最初に紹介したようなエピソードとはほど遠い現実です。電池を入れ替えるだけでまた命が続くようなものではありません。テレビゲームの世界でヒーローの命が簡単に復活できるようなものでもありません。聖書が描く人間の「生と死」はそんなに軽々しいものではないのです。

 だからこそ、この娘を失った父親の願いは真剣なのです。娘が亡くなったと分かっていても、それでも敢えてイエス・キリストのもとへとやってきて、その手でも置いていただこうと真剣な思いでいるのです。簡単に命が充填できると、命をそんなにも軽々しいことと考えているのではありません。死んだとしてもいつでも甦るなどと、軽率に人間の死を見ているのでもありません。一度失われてしまえば、二度と戻ってこないものだからこそ、この父親の悲しみは大きく、命への願いは重いのです。 そう願う真剣な父親の気持ちを遮るように、先週は12年間病気を患う一人の女性の話に目を留めました。イエス・キリストもそのように、この父親の願いを遮って、この病に苦しむ女性に関心を寄せられたのです。ある裁判官が言った言葉に「人の命は重い。地球よりも重い」とありますが、一人の人間の命は誰とも何とも比べることもできません。それくらい重いのです。イエス・キリストにとっては途中で出会ったこの女性の命も、これから訪れようとしている一人の少女の命も、同じようの大切で重たいのです。

 さて、ストーリーは12年間病を患った女性から、再び娘を亡くした父親の話へと戻ります。娘の家では、娘の死を悲しむ者たちが大勢集まっています。それはどこででも見かけるような光景ですが、やはり、この父親にとっては、誰の死とも比較できない、わが子の死の場所なのです。

 イエス・キリストは少女の家に着くとおっしゃいました。

 「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」

 もちろん、そこに居合わせた人々があざ笑ったように、少女はどこからどう見ても、眠っているのではなく死んでいたのです。イエス・キリストもそれはよくご存知でした。しかし、真の命の君であるイエス・キリストだけが「少女は死んだのではない。眠っているのだ」と宣言することができるのです。

 マタイによる福音書は、同じ出来事を記録したほかの福音書のように、出来事を詳しく記そうとはしていません。少女に対して「タリタ・クム」(少女よ起きなさい)と語りかけられたことも、起き上がった少女に食べ物を与えるように命じられたことも何も記しません。その場に居合わせることが許された弟子が、ただペトロとヨハネとヤコブの三人だったことも記しません。ただ、「群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった」とだけ淡々と記します。

 マタイ福音書は細かなことよりも、イエスが手を取って少女を起こされたこと、そして、少女がイエスに応えて起き上がったことだけを記します。

 主イエス・キリストがこの出来事の中心に立っておられます。このイエス・キリストが死を克服し、命をもたらしてくださるのです。マタイによる福音書はその事実を淡々と描いているのです。命は簡単には取り戻すことはできません。しかし、命の主であるキリストだけが、人に命を授けることができるのです。