2006年2月2日(木)「キリストにある新しさ」 マタイによる福音書 9章14節〜17節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
新しいものが必ずしもよいとは限りらない時もあります。古いものの中によいものがあることもあります。しかし、古いものを捨てて、新しいものを身に帯びなければならないときもあります。それを見分けること、その決断をすること、それはキリストを信じる時にとても大切な事柄です。
きょう取り上げようとしている個所には、古いものと新しいものとが登場してしています。イエス・キリストの言葉に耳を傾けたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 9章14節から17節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」
きょうの個所は断食を巡る論争から始まります。洗礼者ヨハネの弟子がイエスのところにやってきて、断食について尋ねます。
断食というのは、少なくとも旧約聖書の中では年に一度、贖罪の日には誰もがするようにと求められていました。しかし、それに限らず、自主的に断食を習慣とする人々がいました。たとえば、ルカによる福音書の18章9節以下に出てくるたとえ話では、ファリサイ派の人々は週に二度の断食をしていました。洗礼者ヨハネの弟子たちも同じように自主的に断食の日を定めて、それを守っていたのでしょう。そういう習慣の中に生きてきた洗礼者ヨハネの弟子たちにとっては、イエス・キリストの行動は不思議に思えたのでしょう。
もちろん、イエス・キリストが断食に対して全く否定的であったのではないことは、このマタイによる福音書を注意深く読めば明らかだと思います。イエス・キリストは洗礼者ヨハネから洗礼を受けてから、荒れ野で四十日四十夜、断食をして過ごされたことが、この福音書の4章に記されています。
また、既に学んだとおりマタイ福音書の6章16節以下には、断食をする時の心得について、イエス・キリストは山上の説教で弟子たちに教えています。
ですから、イエス・キリストが断食そのものを否定していたのではないことは明らかです。しかし、イエス・キリストが弟子たちに敢えて習慣的な断食を求めていなかったということも、きょうの聖書の個所から窺い知ることができます。そうでなければ、ヨハネの弟子たちがこんなにも不審がってイエスのもとへやって来たりはしなかったことでしょう。
では、何故、イエス・キリストはファリサイ派や洗礼者ヨハネのように、弟子たちに定期的な断食を勧めなかったのでしょうか。それが正にきょう取り上げた個所で論争されている点です。それは「時」の理解に関わる問題なのです。
洗礼者ヨハネの弟子たちの質問に答えて、イエス・キリストは三つの譬えを語りました。その三つに共通している事柄は、今の時代をどう理解するかという問題です。
一番目の譬えでは、イエス・キリストはご自分の時代を「花婿が一緒にいる婚礼の宴の時」と表現しました。婚礼の宴はしばしば救いの到来を譬える比喩としてよく用いられます。ここでは特にキリストは花婿に譬えられているようです。救いの時が到来し、正に婚礼の宴も始まっている時に、悲しみや苦しみを思わせる断食がふさわしいかどうかは常識の問題です。誰が喜ばしい婚礼の時に、わざわざ喪に服したような断食を好んでするでしょうか。
もっとも、これは今がどんなときなのかを正しく判断できなければ、誰も正しく行動を取ることはできません。イエス・キリストにとって今は正に婚礼の宴の時なのです。花婿であるキリストが共にいて、祝宴が始まっているのです。
二番目の譬えも、今がどういう「時」であるのかを物語っています。イエス・キリストはおっしゃいます。
「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ」
ここではご自分を新しい時代に属するもの、洗礼者ヨハネやファリサイ派の人々を古い時代に属するものとイエス・キリストは理解しています。新しい時代が既に始まっているのです。だれも、古いものの中に新しいものを無理やり閉じ込めておくことはできません。そんなことをすれば、古いものも新しいものも両方ともだめになってしまうからです。
三番目の譬えも、まったく同じことを語っています。今度は新しい皮袋と新しいぶどう酒、古い皮袋と古いぶどう酒が譬えとして語られます。
「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
ここでも、新しいものを古いものの中に閉じ込めようとする愚かさが語られています。イエス・キリストと出会う者は、この「時」の新しさ、この「時代」を読む力が求められているのです。
イエス・キリストは別の機会にこう言いました。
「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。」(マタイ11:13)
イエス・キリストにとっては、洗礼者ヨハネは新しい時代に属するものではなく、古い時代に属するものなのです。イエス・キリストこそ新しい時代、救いの時代をもたらす者なのです。イエス・キリストとともにいるとき、そこには救いの恵みが満ち溢れ、古いものが過ぎ去って、新しい時代がはじまるのです。
このキリストと出会った弟子のパウロはその手紙の中でこう言っています。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)。「今や、恵みの時。今こそ、救いの日」(2コリント6:2)なのです。