2006年1月19日(木)「罪を赦す権威をもったイエス」 マタイによる福音書 9章1節〜8節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「愛」の反対は「憎しみ」ではなく「無関心」である、という言葉を耳にしたことがあります。なるほどそのとおりだと深く頷きました。もっとも、その場合の無関心とは、何に対しても無関心なのではありません。注ぐ必要のないところに多くの関心を注ぎ、その結果として、注ぐべきところにほとんど関心が注がれないことによってもたらされる無関心です。人は自分自身のことに一番多くの関心を注ぎます。その次に自分の興味のあることに関心を注ぎます。それでも、まだ他の人への関心を抱く余裕があればまだよいでしょう。しかし、大抵の人はそれ以上の関心を誰かに対して抱くことは少ないのです。関心がないことによって人は「愛」の教えに背いているのです。
きょう取り上げる個所には、そうした人間の姿が対照的に描かれています。また、そうした人間社会に来てくださった救い主イエス・キリストの姿が鮮やかに描かれます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 9章1節から8節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。
きょう取り上げた個所は、マルコによる福音書にも同じ記事が載っています。マタイ福音書とマルコ福音書を読み比べてみると、明らかにマタイによる福音書の方が簡潔な書き方がなされています。中風を患う人を運んできた4人の友人たちのことには一切触れていません。群衆に阻まれて、仕方なくなく屋上に上って屋根をはいで、病人を吊り降ろしたことも記されていません。その場に居合わせた律法学者の発言もマタイによる福音書はずっと簡単にしか記しません。
それは、罪を赦す権威を持ったイエス・キリストにわたしたちの目を注がせるための工夫といってもよいかもしれません。マタイにとってはこのイエス・キリストにこそわたしたちの目が注がれることが願いなのです。
けれども、4人の男たちの行動や律法学者たちの発言を控えめに書けば書くほど、返ってそれぞれの人々について思い巡らせるところが多くなります。
マタイによる福音書には、中風の人を連れてきたのが4人の男たちであったということが全く記されていません。ただ、人々がこの中風の人をイエスのもとに連れてきたとだけ記しています。それ以上のことはここには何も書かれていません。しかし、少なくとも、この中風を患う男には、自分を心配し、何とか手助けをしようとする仲間がいたということです。この患者を連れてきた人たちにとっては、愛しい仲間の健康と生活が最大の関心だったのです。この男は病気のために体を自由に動かすことができませんが、自分を心配してくれる仲間には恵まれていたのです。そういう人間関係がマタイによる福音書には暗黙のうちに語られています。
それに対して、律法学者はというと、この病気に苦しむ一人の人間には何も関心がありません。病気が治るようにとも、生活が支えられるようにとも思いません。むしろ関心があったのはイエスのとった行動が冒涜罪に当たるのではないかということだけです。それは律法学者らしい反応であったかもしれません。
そして、さらには、このことの顛末がどうなるのかと固唾を飲んで見守っている群衆が回りを取り囲んでいます。彼らの関心は一人一人違っていたことでしょう。ただの野次馬根性でその場の成り行きを見ていた人もいるでしょう。また、律法学者たちが抱いたのと同じ関心をもってイエスを見つめていた人もいたに違いありません。あるいは病気の男を連れてきた人たちと同じ思いで事の成り行きを見ていた人もいたことでしょう。
そのように様々な関心の目が集まる中で、イエス・キリストがこの病気の人にかけた一声はこうでした。
「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」
もちろん、この人の病気が罪の結果だとイエス・キリストは言っているのではありません。イエス・キリストがおっしゃったのは、正確に訳せば「あなたの諸々の罪は赦される」あるいは「あなたの諸々の罪は赦されている」と言うことでした。「これから赦される」のか「すでに赦されている」のか、翻訳する人とによって理解の分かれるところでしょう。しかし、それよりも大切なのは、イエス・キリストはただ一つの罪を念頭においていらっしゃるのではなく、諸々の罪を念頭においていらっしゃるということです。その諸々の罪とは、イエス・キリストがこの男を診断して見つけ出したたくさんの罪ということではないでしょう。むしろ、この男が自分の病気に関して思い悩んできた様々な罪を受けているのでしょう。自分がこうなったのは、あのことのせいかもしれない、このことのせいかもしれない。そう思い悩むこの人に、イエス・キリストはそのすべての罪の赦しを宣言し、平安を約束して下さっているのです。言い換えれば、イエス・キリストがこの人に対して抱いていた最大の関心は、この人が神に対して持っていた数々の恐れと不安が取り除かれ、神に対して完全な平和を得ることだったのです。
自分の罪をまったく感じない人、神に対して罪人であるがゆえに来る不安と恐れとを持たない人、そういう人にとってはイエス・キリストはどんな意味においても救い主とはなりえないでしょう。しかし、自分の罪におののき、神との和解と平和を求める者にとっては、イエス・キリストは正に罪を赦す権威をもってそれを実現してくださるお方なのです。
マタイによる福音書はその罪を赦す権威をもったキリストの姿を鮮やかに描いているのです。