2005年12月22日(木)「私たちの病を担うキリスト」 マタイによる福音書 8章14節〜17節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
カトリックの作家であった遠藤周作は『イエスの生涯』や『死海のほとり』などイエス・キリストの生涯を描いた作品を残しました。そこに描かれたキリストの姿には遠藤周作のキリスト観が大変よく表れています。その姿は力強い奇跡を行なうキリストではなく、同伴者として弱い者や捨てられた者たちと最後まで共に過ごす愛の人として姿です。
こういう人間的なイエスの描き方は、多くのクリスチャンに波紋を投げかけました。特に伝統的なキリスト像を描いてきた人々には冒涜的とさえ感じられました。遠藤周作のキリスト観には賛否色々あるとは思いますが、イエス・キリストが愛の人であり、弱い者たちと共に過ごす同伴者であったということは、イエス・キリストのすべてではないとはいえ、重要な側面であったことは間違いありません。
きょう学ぶ個所から、イエス・キリストの姿を垣間見たいと願います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 8章14節から17節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』」
今までマタイ福音書の8章から続けて二つの癒しに関わる記事を学んで来ました。きょうは三つ目の癒しの記事です。三番目の癒しは高熱を患うペトロのしゅうとめの話です。
この記事はマルコ福音書にもルカ福音書にも記されていますが、いずれも安息日の出来事として記されています。マタイ福音書にはそういう時間の枠組みは省略してありますが、マルコやルカ福音書と同じ時間の枠の中で出来事を記していたことは間違いありません。8章の16節で、夕方になると、人々が悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た話が出てきます。マタイ福音書ではどうして夕方になると人々が病人たちを連れてきたのかはっきりしませんが、これは安息日が終わるのが夕方であったということを背景に、初めて理解できることです。マルコもルカもそういう時間の流れの中で出来事を記しています。
さて、イエスが安息日にペトロの家を訪ね、ペトロのしゅうとめの熱を安息日に癒されたということには、大きな意味があるのです。
安息日とはユダヤ人にとっては神を礼拝するための特別な日でした。ユダヤ人は会堂に集まり、律法の朗読と解き明かしを受けたのです。それは神から与えられた恵みであり特権でもあったのです。礼拝に与れることは、何よりもユダヤ人にとっては誇りであったのです。
きょうの場面は、その会堂での礼拝のあと、イエスとその弟子たち一行がペトロの家を訪ねるところから始まります。マルコ福音書には「一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった」(マルコ1:29)とあります。マタイ福音書でも先ほど指摘した通り、この日の出来事は安息日の出来事であると考える事ができます。会堂での礼拝の後、客人を家に招いて一緒に食事をすることは、当時のユダヤの世界ではよくあることでした。きっとこの日も、礼拝を終えたイエスたち一行が、ペトロの誘いで家に招かれていったのでしょう。
礼拝では神の言葉によって養われ、そして、今、食事を共にすることで肉体的にも空腹をみたすことができる幸せな一団の姿が描かれようとしています。
しかし、ペトロの家には熱で寝込んでいる年老いた義理の母親がいました。ルカの福音書によればただの熱ではなく高い熱に苦しんでいたのです。方や礼拝の喜びに与り、方や礼拝の交わりに参加することができなかった老母が高熱に臥せっているのです。
マタイ福音書によれば、その状況に目を留められたのはイエス・キリストご自身でした。イエス・キリストは熱で寝込んでいるペトロのしゅうとめをご覧になったのです。健康でさえあればみんなと共に礼拝を守ることができたかもしれない、そういう年老いた人の寂しさや苦しみを、イエス・キリストは決しておろそかにはされないのです。安息日の恵みを、イエス・キリストは病に臥せっている人とも分かちあおうとイエス・キリストは手を差し伸べられたのです。
イエスが癒されたのは、ただ熱だけではありませんでした。熱を癒されたペトロのしゅうとめは、「起き上がってイエスをもてなした」とあります。イエス一人をもてなしたということではないでしょう。ペトロの家を訪れた他の弟子たちをももてなして、安息日の食事を共にしたことと思われます。人に仕えようとする思いまでも与えていただいたのです。人は五体満足で健康であるというだけで、人のために仕える思いが自動的に芽生えてくるわけではありません。現にこの世の中には体の健康が与えられても、何一つ他人のために仕えようとしない人もいるのです。ペトロのしゅうとめがいただいたのは、体の健康だけではありませんでした。人に仕える思いも、心の中から沸きあがらせていただいたのです。いえ、主イエス・キリストが実現してくださるのは、そういう癒しなのです。体の健康を回復してくださるというばかりではなく、わたしたちの内側を豊かにしてくださるのです。
さて、安息日が終わる日没になると、大勢の人たちが病気の人々をイエスのもとへと連れて来ます。ユダヤの掟では、安息日に出歩くことのできる距離も、してもよい仕事量も決まっていましたから、人々は日が暮れるのを心待ちにして、イエスのもとへと訪ねたのです。そうして訪ねてきた人々をお癒しになったイエスの姿を、マタイ福音書は預言者イザヤの言葉に紹介される「苦難の僕」の姿を重ねます。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている」「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。」
実にイエス・キリストはわたしたちを蝕むあらゆる病の苦しみを知っていらっしゃるのです。それは肉体の病ばかりではありません。病んでいる魂の苦しみもイエスはご存知です。そのすべての苦しみを背負ってキリストは十字架の道を歩まれたのです。