2005年12月1日(木)「人生の土台」 マタイによる福音書 7章24節〜29節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
家を建てるときには土台をしっかりと作ることは、常識としてよく言われていることです。しかし、一旦建物が建てられてしまうと、土台がしっかりしているかいないか、外から見ただけではなかなか気がつかないものです。建物に不具合が出て、はじめて土台がおかしいことに気がついたという欠陥住宅の話をよく耳にします。そうなってからでは遅すぎます。
さて、基礎がしっかりしているいないかの話は、建物ばかりではなく、勉強でもスポーツでも仕事でも何にでも当てはまることです。
イエス・キリストはわたしたちの生きていく上で大切な土台がどこにあるのか。わたしたちがなにを土台として生きようとしているのか、問い掛けていらっしゃいます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 7章24節から29節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
きょう取り上げた個所は、5章から始まった一連の「山上の説教」を結ぶ最後の個所です。すでに、この二週間にわたって取り上げた通り、イエス・キリストは山上の説教を結ぶに当たって、いくつもの譬えを持ち出して、聞く人々にチャレンジしています。
先々週は狭い門と命、広い門と滅びを対照させながらながら、狭い門を通って命に至るようにと弟子たちに強く勧めるイエスの姿を学びました。先週は良い木と良い実、悪い木と悪い実を対照させながら、命へと導く真の預言者を見分けるようにと弟子たちにキリストはチャレンジなさいました。
きょう取り上げる個所では、岩の上に立てられた家と砂の上に建てられた家とを対照させて、何を土台として生きるべきか、イエス・キリストは弟子たちにチャレンジされています。
さて、この譬え話ではイエスの話を聞いて行なう賢い人と、聞くだけで行なわない愚かな人が、それぞれ岩の上に自分の家を建てた賢い人と、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に譬えられています。この二人は家を建てたという点では共通した人たちです。一方が家を建て、他方は寝てばっかりで家を建てなかったというわけではありません。一方が勤勉で、他方が怠け者だったというわけではないのです。二人とも家を建てました。土台の上に乗っかっている家は、まさに家です。乗っかっている建物は同じ建物なのです。ですから、この譬え話のポイントはレンガでしっかり建てた頑丈な家と藁で建てたもろい家との違いなのではありません。ポイントは何を土台としたかの違いなのです。そして、その違いが嵐が襲う時の結果の違いとなって現れてくるというのです。
ここでイエス・キリストがおっしゃる雨や川の氾濫や強い風は、ただ単に人生の試練と言うだけではなく、命に至るか滅びに至るかを決するような大きな試練です。もちろん、一方にはその試練が襲い掛かり、他方にはその試練が襲い掛からなかったという違いではありません。家を建てたのが同じなら、大きな嵐に見舞われたのも同じなのです。この大きな試練を耐え抜いて一方は命に至り、他方は滅びに至ったのはどうしてなのか、考えてみなければなりません。
イエス・キリストはご自分の話を聞いて「行なう賢い人」と「聞くだけで行なわない愚かな人」とを対比させています。しかし、先ほども指摘した通り、イエス・キリストの話を聞いても行なわなかった人は、何も行なわなかった人ではないのです。同じように人生の道を歩み、人生を築き上げていった人なのです。もし、嵐さえ襲ってこなければ、この二人の違いは人の目には明らかではなかったかもしれません。一方が真面目で勤勉で、他方は不真面目で怠けてばかりという違いではありません。もしこの話の結論がそうであるなら、心して真面目に勤勉に生きるように努力すべきです。
しかし、ただ真面目に勤勉に生きたから、ただ一所懸命に人生を生き抜いたから、それで大丈夫だとはいえないのです。ここにイエス・キリストのお話の厳粛さがあります。しかしまた、それはキリストのお話の恵み深さでもあるのです。
イエス・キリストのお話は「行動的な人間」と「何もしない理屈だけの人間」の違いについてではなく、人生を何の上に築くかという、とても大切なお話を山上の説教の結論においているのです。
その土台とは、イエス・キリストの言葉そのものです。このイエスの言葉を聞いてそれを行う人とは、このイエスの言葉の上に自分の人生を築き上げていく人のことです。それは一見してすぐにクリスチャンであるかどうかということが分かるように人生を築き上げて行くということではありません。先週の個所にも出て来ましたが、御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行うことなら、偽預言者にもできることなのです。ほんとうにその人の人生の真価が問われるのは嵐が吹き荒れ、洪水が起る時なのです。その行いの一つ一つがキリストの言葉を土台としているのでなければ、神の審判には耐えられません。イエス・キリストのこの言葉を軽くみなしてはいけないのです。たとえどんなに立派な人生の家を建てたとしても、キリストを土台としていないならば、神の審判の前には、そのその倒れ方はひどいものになってしまうのです。
このことは裏を返せば、キリストの上に人生を建て上げていくならば、どんな嵐にも崩れ去る心配はないのです。イエス・キリストが望んでいらっしゃることは、キリストの言葉の上に人生を建て上げて、滅び去ることのない命を得ることなのです。