2005年11月24日(木)「偽物と本物を見分ける」 マタイによる福音書 7章15節〜23節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「異端審問」という言葉を聞くと、何か中世の非人道的な魔女狩りを連想するかもしれません。自分が異端者呼ばわりされる前に、一刻も早く相手を異端者扱いした方が勝ちというのでは、疑心暗鬼の絶えない社会になってしまいます。
しかし、代々の教会が異端と戦ってきた正統的な戦いを正しく評価することも大切です。既に新約聖書の中でさえ偽教師や偽預言者のことが取り上げられています。ヨハネの第一の手紙には「反キリストの霊」「惑わす霊」に動かされる偽預言者のことが記されています。こうした偽りと本物を見分けて、今日まで純粋性を保つ努力をしてきたのもキリスト教会の歴史です。それを「排他的」の一言で片付けてしまうのは、教会の歩みを正しく評価しているとはいえません。
きょうの個所には偽預言者に対するイエス・キリストの言葉が厳しい調子で記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 7章15節から23節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
きょうの個所も前回と同様に、山上の説教全体の結論的なまとめの部分と言ってもよい個所です。前回の個所では神の言葉に従って狭い門から入ることが命じられていました。もちろん、狭い門へと導く神の声が直接クリスチャンの耳に聞こえるのでしたら誰も道を誤ることはないでしょう。けれども、神はご自分の言葉を、油注がれた預言者の口を通してお語りになってきたのです。ヘブライ人への手紙1章1節にある通り「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られた」ました。しかし、神によって立てられた預言者が語るのと同じくらい、巧妙にも偽の預言者が現れて偽りの真理を語っているのです。
なぜそうなのか、イエス・キリストはその理由をお語りにはなりません。ただ、その現実に警戒するようにと注意を促しています。このイエス・キリストの警告に十分耳を傾けなければなりません。また、代々の教会はこのイエスの御言葉に耳を傾けて、異端的な教え、偽りの真理と戦ってきたのです。
ここでイエス・キリストが言っている偽預言者というのは、後で出てくる言葉からも分かるように、明らかに別の宗教や哲学に属する者たちなのではありません。「主よ、主よ」と主の聖名を呼ぶ者たちです。主の聖名によって預言したり、主の聖名によって悪霊を追い出したり、主の聖名によって奇跡を色々と行う者たちです。そうであればこそ、偽預言者に心して警戒しなければならないのです。
その偽預言者のことをイエス・キリストは「羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」と言っています。見た目では真の預言者と何ら区別することができないほどに、羊のような穏やかで優しい外観です。いえ、むしろ真の預言者よりも柔和な印象を与えるかもしれません。しかし、その本質は貪欲な狼であるとキリストはおっしゃいます。
狼と言うのは羊を飼うものにとって最大の敵です。群れの羊を奪い取り、食い殺してしまうからです。偽預言者の本質は羊を食い殺してしまうことにあるのです。命に至る狭い門に導くどころか、そこから人々を迷いださせ、滅びへと導いてしまうのです。しかも、羊の皮を被っているのですから、餌食が出るまでは、誰もそれとは気がつかないほどなのです。
しかし、イエス・キリストはそのような偽預言者を防ぎようのないものとはおっしゃっていません。
「あなたがたは、その実で彼らを見分ける」とイエス・キリストはおっしゃいます。もちろん、羊を食い物にするのを見て、初めて結果を知るというのではありません。それでは手遅れです。
では、イエス・キリストがおっしゃる「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」とはどういうことなのでしょうか。イエス・キリストは「御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行った」ということが、それ自体で実の正しさを証明するものではないことを語っています。それが天の父の御心かどうか、そこにこそ良い実と悪い実の決定的違いがあるのです。
「天の父の御心かどうか」ということを見分けるのは、結局は神が今までに語ってこられたことによってしか検証されるものではありません。少なくともわたしたちの時代には一冊の聖書が与えられています。この聖書が語る神の御心全体を視野に入れて、良い実と悪い実を見分けていかなければならないのです。
ただ単に人から喜ばれる良い行いということだけであれば、異端者の中にも、偽預言者の中にも人々から賞賛されるような立派な行いの人もいます。そうではなく、その人の語ることが神の御心全体から外れているとすれば、その人がどれほど人間的に立派で、また人間的な好評を博するような人であったとしても、警戒しなければならないのです。
このイエス・キリストの言葉は厳しいお言葉のように感じられます。しかし、この言葉はキリストを信じる弟子たちに対する言葉であるという点に先ず心を留めましょう。このキリストの言葉は偽預言者に対して語られているのではありません。そうではなく、偽預言者の餌食にならないために弟子たちに語られたイエスの言葉なのです。ですから、何よりも本物と偽物とを見分ける力、神の御心全体と一致するものとそうでないものとを見分ける力を主に祈り求めていきましょう。