2005年11月3日(木)「求めなつづけよ、与えられるから」 マタイによる福音書 7章7節〜11節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「求めよ。さらば与えられん」…この言葉もまた有名な聖書の言葉です。クリスチャンでなくても、誰もが一度は耳にした言葉であると思います。そればかりか、聖書の文脈を離れて、色々なところで絶望の淵にある人たちを励ましてきた言葉ではないかと思います。この言葉を聴いてどれほど多くの人たちが勇気を得て、困難な状況から手を伸ばしてチャンスを掴んだことでしょう。
しかし、言葉というのは有名になればなるほど、もともとの意味を離れて、一人歩きしがちなものです。自分にとって都合のよいように聴かれ、都合のよいように解釈され、都合のよいように適用されるものです。
果たして、イエス・キリストは誰に対して、どのような目的でこのことをおっしゃったのでしょうか。ご一緒に考えてみたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 7章7節から11節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」
まずここでイエス・キリストは「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」とおっしゃっています。もちろん、求めるのも、探すのも、門をたたくのも、一回やってみてダメだったら諦めるというような求め方、探し方、門のたたき方ではありません。イエス・キリストは「求めつづけなさい、探しつづけなさい、門をたたき続けなさ」…こうおっしゃっているのです。
そもそも、イエス・キリストは何故こんなことをおっしゃったのでしょうか。神はそんなにも意地悪で、中々願いを聞きあげてくださらないようなお方なのでしょうか。そうなのではありません。ここでは二つのことをまず知っておかなければならないのです。
一つはわたしたちが得ようとしている救いは、そんなにも軽々しいものではないということなのです。「ください」「はい、どうぞ」と気軽に受け渡しできるようなものでは決してないのです。というのも、救いと言う恵みの価値があまりにも大きいということに対して、それを求めている人間の罪があまりにも深いという現実があるのです。もちろん、罪があるからこそ、救いが必要なわけですし、罪が大きすぎて、救いの恵みが不足しているから、一所懸命求めないとダメだといっているわけではありません。
求めつづけることを通して、探しつづけることを通して、また叩きつづける事を通して、自分が今神から与えられようとしている救いの恵みの大きさをますます知ることができるようになるのです。
もう一つ知っておかなければならないことは、わたしたちがどれほどいい加減にしか求めていないかということです。ほんとうにギリギリのところまで来ていないにもかかわらず、なんと中途半端なところで諦めていることの多いことでしょうか。ほんとうに救いの道が閉ざされていると思うのなら、なおいっそう求めつづけ、探しつづけ、そして、門を叩きつづけるはずです。そうでないとすれば、その人にとって救いはそれ程の物でしかないということなのです。
求めつづけることで、救いの恵みの大きさを知り、探しつづけること、門を叩きつづけることで、神のもとにしかない救いの恵みを真剣に求めつづけることの大切さをわたしたちは知るのです。
ところで「求め続けなさい、探しつづけなさい、門をたたき続けなさい」というこの言葉には、約束が伴っています。「そうすれば与えられる」「そうすれば見つかる」「そうすれば開かれる」。さらに繰り返して「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」とイエス・キリストはおっしゃっています。
イエス・キリストがこの約束をお語りになるときに、その約束が確かなものであるというはっきりした確信がありました。それは求め続けて手に入れるのも、探しつづけて見出すのも、門をたたき続けて開かれるのも、与えてくださるお方、見出させてくださるお方、門を開いてくださるお方がいらっしゃるという大きな前提があるからです。このお方とは、天の父なる神様です。恵みと憐みに富んだ天の父が、与えてくださり、見出させてくださり、門を開いてくださるのです。ここでは、求めつづける本人の努力よりも、与えてくださる天の父なる神の恵みの大きさに気がつかなければなりません。求め続けるのも、探しつづけるのも、門をたたきつづけるのも、この天の父が恵み深いお方であるからこそ可能なのです。
そこで、イエス・キリストは地上の父親を引き合いに出して、こうおっしゃっています。
「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」
誰が考えても、パンを求める子に石を与える親はいません。魚を欲しがっている子に蛇をやる親もいないでしょう。パンを欲しがる子どもにパンを与え、魚を欲しがる子どもに魚を与えるのは、何も特別に善良な父親だけがそうするわけではありあせん。イエス・キリストは「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」とおっしゃっています。悪い親でさえ自分の子どもに良いものを与えることが正しいと知っているのですから、まして、すべての善きものの源である神が、恵みを与えてくださらないはずはないのです。
もっとも、この譬えは親と子であることが前提です。いくら天の父なる神が恵み深いお方であるとしても、わたしと何の関係もない赤の他人だとすれば、このイエス・キリストの言葉には何の意味もありません。
実はイエス・キリストのこの言葉には、イエスを信じる者たちをわが子のように思い、父として振る舞ってくださる神がいらっしゃるという大きな恵みが先立っているのです。恵み深くも、神が罪深いわたしたちの父として振る舞ってくださるからこそ、求めつづけ、探しつづけ、門をたたきつづけるわたしたちの努力が無駄に終わることがないのです。