2005年10月20日(木)「裁くな」 マタイによる福音書 7章1節〜5節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
判断すること、見分けること。これはわたしたちの日常生活の中でほとんど毎日繰り返されています。良いものと悪いものとの見分けができなくなったらこれは大変なことです。物についてであれ、人についてであれ、良し悪しを判断し、評価して暮らすのが人間です。
もっとも、同じ共同体のメンバー同士が、毎日相手の良し悪しをあげつらっていたのでは、居たたまれたものではありません。まして、その判断が、噂や想像や誤解に基づくものであったとしたら、その共同体はあっという間に崩壊してしまうことでしょう。
きょう取り上げる個所には、「裁くな」とおっしゃるイエス・キリストの教えが記されています。一体どういう意味で裁くなとおっしゃっているのか、考えてみたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 7章1節から5節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」
イエス・キリストは弟子たちに、「裁くな」とおっしゃっています。ここでイエス・キリストが念頭においていらっしゃるのは、身近な兄弟のことです。兄弟といっても血のつながりのある文字通りの兄弟ではなく、イエス・キリストの弟子たちの集まりでのことです。その集まりは今日で言えば「教会」といっても良いでしょう。つまり、イエス・キリストがここで念頭においていらっしゃることは、教会という共同体のメンバー同士の問題なのです。当然、この共同体は外部からの危険にさらされることもあります。偽の羊飼いがやってきて群れを引き裂くかもしれません。良い羊飼いとそうでない羊飼いを見分ける判断は当然下さなければならないことです。そういう判断までもしてはならないとイエス・キリストはおっしゃっているのではありません。
また、共同体の内部には、当然、人間的な様々な問題も起こることがあるでしょう。後にイエス・キリストはマタイによる福音書18章15節以下で、共同体のメンバーが何か罪を犯してしまった時の取り扱いについてお話になっています。その罪を犯した兄弟に対して、一切の判断や判定を下してはならないとはおっしゃっていません。むしろ、ちゃんとした手続きを踏むようにとおっしゃっています。ほんとうに兄弟が罪を犯しているならば、その者を正しい道へと連れ戻すのは同じ共同体に属するメンバーの務めです(ガラテヤ6:1、ヤコブ5:19-20)。
それに対して、きょう取り上げた個所でイエス・キリストが教えていらっしゃることは、そういう正規の手続きを踏まない、まったくの個人的な裁きの問題なのです。キリストが禁じておられる個人的な「裁き」ということは、具体的には二つの場合が考えられます。
一つはちゃんとした証拠があるわけではない、伝聞や思い込みによる判断です。もし、はっきりとした証拠があるならば、マタイ18章15節以下でキリストが教えてくださった手続きに従うべきなのです。そうすることができないような、あいまいな事柄にもかかわらず、なお兄弟を裁いてしまう、そういう個人的な判断をキリストは禁じていらっしゃるのです。恨みや妬みや、気まぐれな第一印象で、人の品定めをしてしまう軽率なあり方をイエス・キリストは戒めていらっしゃるのです。
もう一つは、たとえ決定的な証拠があったとしても、それを正規の手続きで処理することをしない場合です。教会にはキリストの教えに適った問題処理の方法があります。それはなによりも罪を犯した人が正しい道に立ち返ることを第一の目的としています。正規の手続きを飛び越えて個人的に裁いてしまうということは、裁くことの目的や動機が不純である場合が少なくありません。相手が罪に定められるとに快感をおぼえたり、裁いている自分の正しさに自己満足したり、そういう不純な動機のためになされることが多いのです。そうであればこそ、キリストはそのような個人的な裁きを行なう者たちに対して「偽善者よ」と呼びかけているのです。
イエス・キリストは「あなたがたも裁かれないようにするためである」とおっしゃっています。いったい誰がそんなあなたを裁くとおっしゃるのでしょうか。そんな裁きをしていれば、必ず人からしっぺ返しを食らうので、気をつけなさいということなのでしょうか。そうではありません。この場合の「裁かれないため」という受身の表現はヘブライ語独特の表現です。裁きの主体は人ではなく神なのです。神によって裁かれないために、キリストはそのような個人的な裁きをしないようにとおっしゃっているのです。印象や誤解によって人を裁けば、そういう人間の軽率な行動を神は見ていらっしゃるのです。そのことを知って神を畏れるべきなのです。また、神は裁きを行なうその人の心うちをも見ていらっしゃるのです。その裁きが愛から出たものであるのか、偽善的な思いから出たものにすぎないのか、神はご存知でいらっしゃるのです。そのことを知って、神の御前に慎み深くあるべきなのです。
イエス・キリストは個人的な裁きを行なってしまう人の愚かさを、他人の目に入ったおが屑を気にして、自分の目に入った丸太に気がつかない人に譬えています。そんなことはありえないようなことです。ありえないようなことを平気でしても、全く気がつかない人間の愚かさを指摘してくださっているのです。
丸太が目に入るというのは、もちろん誇張した表現かもしれません。しかし、わたしたちの罪深さは小さなおがくずどころではない、正に丸太ほどのものだと心得ているべきなのです。自分の目に入ったそんな大きな丸太にさえ気がつかない者が、どうして他人の目に入った小さなおが屑を上手にとりのぞくことなどできるでしょうか。
もし、目の手術を施してくれる医者の目に太い丸太が刺さっているのを見たら、誰が安心してその手術をその医者に任せることができるでしょうか。教会の中で誰かを個人的に裁いてしまうということは、それくらいに恐ろしいことなのです。