2005年9月29日(木)「心を天に」 マタイによる福音書 6章19節〜21節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「白銀も黄金も玉もなにせむや、 まされる宝 子にしかめやも」と詠ったのは山上憶良です。山上憶良にとっては子どもほど大きな宝はないというのです。なるほど宝というのは、何も金銀財宝ばかりではありません。金銀財宝にまさるものを宝として生きている人は、世の中に大勢いることでしょう。けれども、その宝が何であれ、何の宝を持たずに生きている人というのはいないのではないかと思います。人は誰でも価値あるものを見出し、その価値あるものを大切にして生きていくものです。
イエス・キリストはこの宝の持ち方に気をつけるようにと、わたしたちに注意を促しています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 6章19節から21節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
イエス・キリストは「地上に富を積んではならない」と弟子たちに教えています。ここでイエス・キリストが問題にしている「富」とはいったい何なのでしょうか。
ここで「富」と言われているのは「宝」とも訳すことができる言葉です。日本語で「富」というと、蓄積された金や銀やお金などの財貨を連想してしまいがちです。確かに、虫が食ったりさびがついたりするような富を、この地上に積むなという教えから連想されるものは、そうした具体的な貴金属や財貨です。それは「富」を「宝」と訳し変えても同じかもしれません。「宝」も地上では朽ち果て、泥棒に持っていかれてしまうからです。
しかし、番組の冒頭でもお話しましたが、「宝」というのは、金や銀などの財貨に限られるわけではありません。子どもを宝だということもできるわけです。その場合の「子どもが宝だ」というのは「子どもの財産的な価値」を言っているわけではありません。将来、貴重な労働力になるとか、そういう意味ではないはずです。子どもが与える、親にとっての精神的な支えや癒しを宝と呼んでいるのでしょう。
そういうものであれば、人間は金銀財宝以外の宝をたくさん持っています。学歴を宝と思う人もいるでしょう。あるいは人脈を宝と思う人もいるでしょう。これらを「富」であるとは言いませんが、「宝もの」であるということはできるでしょう。これらの宝ものは、朽ちてしまうといえば朽ちてしまうかも知れません。しかし、泥棒が盗むことができるかといえば、できるものではありません。卒業証書は盗まれても、学歴までも盗んでいかれるわけではありません。名刺や住所録を盗まれたとしても、それまで築いてきた人間関係までも盗んでいかれるのではありません。
イエス・キリストはこうした泥棒によって盗まれない宝をも地上に積まれた宝として退けようとなさっていらっしゃるのでしょうか。それとも、こういうものこそ、朽ちずさびず、泥棒も持っていくことができない天の宝だとおっしゃりたいのでしょうか。
確かに、これらの宝が無意味なものだとは言いません。ある意味では人間を豊かにしていくでしょう。しかし、目に見える金や銀でさえも意味のないものだとは言えないのです。それは、ある意味では人間を豊かにしてくれるからです。
しかし、ここでイエス・キリストが問題にしていることは、さびがつくか、虫が食うか、泥棒が持っていけるかどうか、そういうことが問題なのではありません。比較の対象が、天に積む宝であるか、地上に積む宝であるか、それが問題なのです。
天に積む宝という観点からすれば、金銀財宝は天に持ち込むことができません。どんなに財産を貯めたとしても、それを棺おけに詰め込んで一緒に天国まで持っていくことはできません。学歴や人脈、この世の名誉といったものも、この地上では宝かもしれませんが、それを天国に持ち込むことはできないのです。それらはこの地上限りでの宝でしかないのです。
実はこのキリストの言葉はルカによる福音書にも記されていますが、もっと具体的な言葉で記されています。
「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」(12:33)
つまり、ルカ福音書にとっては、天に宝を積むとは、自分の持ち物を売り払って施しをすることと深く結びついているのです。誤解しては困るのですが、それは天に功徳を積むというのとは違います。もし、わたしたちが自分の救いのために何かを積まなければならないとすれば、自分の救いを達成するために何も積むものがないのです。そうではなく、ここでは神を信じ、神を信頼して生きる生き方が求められているのです。自分を救うために施しを行なうのではなく、自分を生かして下さっている神を信頼し、神が求めておられる隣人愛のうちに生きること、それが天に宝を積むことと結びついているのです。
人が宝を積むのも使うのも、大抵は自分のためであったり、自分と関係のある人のためであったりするものです。地上に宝を積むとは、積む宝が何であれ、隣人愛の教えからかけ離れているならば、それは地上につまれた宝なのです。
イエス・キリストは自分のためだけに財産を蓄えた愚かな金持ちのたとえ話を結ぶに当たって「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」とおっしゃっています(ルカ12:21)。
しかし、もし、隣人愛のために生きるならば、それは宝を天に蓄えることにつながり、神の前に豊かに生きるものとされるのです。
また、イエス・キリストは「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」ともおっしゃいました。つまり、「富を天に積む」ということは、心を天にあらしめることなのです。心を天にあらしめるということは、日々、神の御心を尋ね、神のみ心に従って生きるということなのです。隣人愛の実践は正にこの神のみ心に従って生きることであり、天に心をおく生き方なのです。そして、そういう生き方をとおして、天に宝を積む生き方をするようになるのです。