2005年9月22日(木)「断食をするときには」 マタイによる福音書 6章16節〜18節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
英語で朝食のことをbreakfastと言いますが、文字通りの意味は「断食を中断する」と言うことです。つまり、夕食を食べてから次の日の朝はじめて取る食事までの間を断食と考えているのでしょう。夜の間の断食を中断して取る食事、それが朝食なのです。そういう意味での断食なら、誰もが毎日断食をしていることになります。
しかし、「断食」という言葉には、いつも何かしらの「苦行」というイメージがついて回っています。夕食と朝食の間を「断食」と呼ぶことに抵抗を感じるのは、きっとそれが「苦行」というイメージとはかけ離れているからでしょう。
イエス・キリストは「施し」や「祈り」に続いて「断食」をする時の態度についても教えていらっしゃいます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 6章16節から18節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
今まで学んできた「施し」や「祈り」に比べると、今日の教会では「断食」についてほとんど教えられることがありません。一概には言えないかもしれませんが、特にプロテスタント教会ではその傾向が強いかもしれません。私自身の経験でも、この10年間を振り返ってみて、「祈り」についての話は良く耳にしましたが、それと比べて「断食」について語られるのを耳にすることは、ほとんどなかったといってもいいくらいです。
しかし、プロテスタント教会が全く断食と言う言葉をまったく忘れてしまっているのかと言うと、必ずしもそうではありません。例えば、17世紀にウェストミンスター神学者会議が作成した礼拝指針の中には「断食」についての項目が定められています。長老派の教会では長年この礼拝指針の影響を受けて来ました。その後、今世紀に入ってから改定された長老派の礼拝指針でも、「断食」についての項目がなくなってしまうということはありませんでした。
しかし、いずれにしても、それを機会あるごとに実行している教会は少なくなってきているように思います。
さて、イエス・キリストは今まで「施し」と「祈り」について教えてこられましたが、それらはいずれにしても当時のユダヤ人たちの宗教生活の中に深く根ざした事柄でありました。それと同じように「断食」もまた、当時のユダヤ人たちの宗教生活の中に深く根ざした事柄でありました。イエス・キリストはこれから断食の習慣をはじめるようにと勧めていらっしゃるのではなく、既に行なわれている断食について、どうふさわしく断食に臨むべきなのか、そのことを教えていらっしゃるのです。
きょうの番組の出だしのところでも言いましたが、「断食」というものには「苦行」というイメージが結びついています。これは一般的な感覚から言ってそうなのですが、しかし、旧約聖書の世界でも「断食」と「苦行」は結びついています。例えばイザヤ書58章5節では「断食」は「苦行の日」と言い換えられています。そもそも、旧約聖書が命じている公の断食日というのは、レビ記16章に記された年に一回の「贖罪の日」と呼ばれる日、一日がそうでした。そこには「断食」ということばそのものは出てきませんが、その日に自分の身を苦しめることが命じられています(レビ16:29)。ここでも断食は自分の身を苦しめることに通じると言う理解が背景にあるのです。
そうであれば、断食を行なう者がにこやかな表情であるというのは断食の主旨に添わないように感じられるかもしれません。わざわざ苦痛に満ちた表情で断食に臨む必要はないにしても、自分の身を苦しめることが断食に結びついているのであれば、その苦しみは顔や表示に表れてきてしまうのは当然でしょう。
しかし、イエス・キリストは、この常識から見ればずいぶんと不思議なことをおっしゃいました。
「断食するときには、あなたがたは…沈んだ顔つきをしてはならない。…あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。」
おおよそ普段と変わらないように、断食の時を過ごすようにとお命じになっているのです。その当時のユダヤ人たちの感覚からすれば、このイエスの教えは随分と突拍子もないことと感じられたことでしょう。
けれども、イエス・キリストの教えには一貫して一つのテーマが流れているのです。それは「施し」や「祈り」についての教えでも繰り返し出てきたことです。その一貫した教えとは、「偽善者のようであってはならない」という教えです。施す時にも、祈る時にも、そして断食をする時にも「偽善者のように人に見せるため」にそれを行なってはいけないというのです。
もちろん、イエス・キリストがおっしゃる「偽善者のようであってはならない」と言う教えの中心は、「人に見せない」という消極的な事柄にあるのではありません。そうではなく、隠れたところで見ておられる天の父なる神の御前に立つということにあるのです。
聖書の中で自発的な断食はさまざまな機会に行なわれています。罪を悔い改める時、また、祈りに専念したい時、人々は自発的に断食しました。断食を行なう者はその場面場面で神の御前に自分自身を置いているのです。もしそうでなければ、どんな断食も偽善者のように見せるための断食に終わってしまうのです。
先ほど旧約聖書のイザヤ書58章5節を引用しましたが、それにはこういう言葉が続いています。
「葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと それを、お前は断食と呼び 主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。 悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと。」
もし、罪を心から悔い改めるために断食をするのであれば、それにふさわしく神の御前に立って生きることこそ、求められているのです。