2005年8月4日(木)「神の前に誠実に生きる」 マタイによる福音書 5章33節〜37節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教界に生きていると「誓い」や「誓約」というのはとても身近な事柄です。まず、洗礼を受けようとする者には必ず誓いが求められます。同じようにある人が牧師として立てられようとするとき、誓いが求められます。それから、誰もが知っているようにキリスト教の結婚式では結婚しようとする二人によって厳かな誓いが交わされます。
もっともこうした誓いの行為は、キリスト教に限らず、一般の社会生活の中でさえも重要な役割を果たしています。大学に入学する時や会社に勤めるときには誓約書に署名が求められます。スポーツ大会ではスポーツマンシップに則って正々堂々と戦うことが宣誓されます。あるいは裁判の証言に立つときには、その証言が真実であることの誓約が求められます。
こうして見てくると、誓うことのない生活と言うのは考えられないといってもいいかも知れません。その誓いについて、きょうはイエス・キリストの言葉から学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 5章33節から37節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
誓いに関しては、旧約聖書の中にすでに様々な教えがありました。モーセの十戒の中では、第3戒に教えられる「主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めが、誓いの乱用を戒めた教えだと理解されていました。あるいは十戒の第9戒は偽証を禁じた戒めですが、これもある意味では偽りの誓いを禁じたものと言えるでしょう。
また、旧約聖書詩編24編には、神の聖所に立つ資格をもった者についてこう歌っています。
「どのような人が、主の山に上り 聖所に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心をもつ人。 むなしいものに魂を奪われることなく 欺くものによって誓うことをしない人」
こうした旧約聖書の背景から考えると、イエス・キリストがおっしゃる「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」という教えは、とてもラディカルな響きを持っています。旧約聖書教えは、どの教えも、「誓う」ということを前提にしています。「誓う」ということを前提にしながら、「偽りの誓い」を退け、「誓いの実行」を求めていたのです。しかし、イエス・キリストは大胆にも「一切誓いを立ててはならない」とおっしゃいます。もし、このイエス・キリストの言葉を文字通りに理解するとすれば、大半のキリスト教会はキリストの教えに反して、数々の場面で誓いを求めていると言うことになってしまいます。そればかりか、マタイ福音書5章17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とおっしゃったイエス・キリストの言葉が矛盾してしまうことになります。
果たしてイエス・キリストは文字通りの意味で、一切の誓いを否定されたのでしょうか。
そこでまず注意深く読まなければならない点は、一切誓うことを禁じられたイエスの言葉に続く言葉です。
「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である…」
そもそも、当時のユダヤ人たちが神の名によって直接誓わずに、天や神の玉座など間接的なものによって誓ったのには、それなりの理由がありました。それは「主の名をみだりに唱えてはならない」という十戒の第3戒を厳密に守るためでした。誓いのたびに神の名を呼ぶのは畏れ多いというのです。それはそれとして意味のあったものであるかもしれません。しかし、やがてはそのことが誓ったことを果たさない言い逃れに使われるとしたらどうでしょうか。神によって誓ったのではないので、その誓いが守れないとしても大きな罪を犯すわけではないと考えられるようになったとしたら、どうでしょう。もはや誓いには意味がなくなってしまいます。
また、この間接的なものによって誓う習慣は、後に23章16節以下で出てくる律法学者やファリサイ人を非難するイエスの言葉を思い出させます。イエスによれば彼らは何によって誓ったのかによって、巧みに果たさなくてもよい誓いの例外を定めます。たとえば、神殿にかけて誓えば、その誓いは無効なので果たす必要がないと。しかし、神殿の黄金にかけて誓えば、その誓いは必ず果たさなければならないと言うのです。こうなってくると、もはや誓うことにあまり意味がなくなってしまいます。
本来、神の聖名を直接呼んで誓うことを避けた工夫も、また、誓いを確実に果たさせるための様々な区別も、結果としては誓いの厳かさを失わせてしまう結果になっていたのです。
イエス・キリストは誓いそのものを拒否されたのではありません。もしそうだとすれば、イエス・キリスト自身の言葉に反して、それは律法を廃止することになるからです。そうではなく、イエス・キリストが求めておられるのは、誓いを実質的に意味のあるものとすることなのです。
そもそも、誓うという行為は、神の前で自分の言葉と行いに責任を持つことです。その責任を少しでもゆがめるとするならば、それは誓いではなくなってしまうのです。
否を否とし、然りを然りとする生き方、神の前に裏も表もなく、誠実に生きる生き方こそイエス・キリストが求めている生き方なのです。そして、そういう生き方こそ、ほんとうに誓ったことを重んじる生き方なのです。