2005年7月28日(木)「結婚とクリスチャン」 マタイによる福音書 5章31節〜32節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
社会の風潮というのは絶えず変化していくものです。何も考えずに、時代の風の吹くままに、時代の流れに身を任せて生きるのは確かに気が楽です。しかし、それではいつも時代の波に飲み込まれてしまい、自覚的に成長することはできません。
絶えず変化する風潮の中で、自分自身の生き方をもって生きることは、どんな人にとっても決して簡単なことではありません。特にクリスチャンにとっては様々な場面でそのことを痛感するのではないかと思います。
時代と共に変化する風潮の一つに、結婚や離婚についてのものの考え方も含まれるだろうと思います。きょうは離婚についてのキリストの教えを取り上げようとしています。こういう話題はあまり聴きたくない話かもしれません。特に問題の渦中にいる人たちにとっては、そういう話題を軽軽しく扱って欲しくないと感じられることと思います。もちろん、この離婚についての話題をきょう取り上げるのは、わたしに何かの意図があってということではありません。マタイによる福音書を最初から取り上げて学んでいますので、ただこの個所を取り上げる順番が巡ってきたと言うだけのことです。けれども、そういう機会でもない限り、中々取り上げることもできない問題ですので、この個所を飛ばさないで取り上げることにします。ただ、この機会を離婚について考える機会とするのではなく、結婚について考える機会としたいと願います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 5章31節と32節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
先ずはじめに、結婚や離婚に関しての社会の意識は絶えず変化しているということは、否定することのできない現実です。このイエス・キリストの言葉を聞いたときに古めかしい古風な教えだと感じる人が、今の世の中にたくさんいるとしても、それは不思議なことではありません。しかし、ただの古めかしい教えとして隅に追いやってしまうのではなく、もう一度初心に帰って、イエス・キリストがここで一体何をおっしゃりたかったのか、耳を傾けたいと思います。
旧約聖書のモーセの律法には離婚に関する規定が定められていました。ここでイエス・キリストが最初に取り上げているのはそのモーセの律法の言葉です。旧約聖書申命記の24章1節にはこう定められています。
「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」
この規定自体が離婚という現実を前提としていることは否定できません。しかし、そのことは聖書が離婚というものを肯定しているのか、というと必ずしもそうなのではありません。他のどの戒めもそうですが、そもそも人間に罪がなければ、どんな戒めも必要はありません。
イエス・キリストは別の個所でこのモーセの規定についてこうおっしゃいました。
「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」
つまり、離婚についての規定は、決して本来あるべき姿を定めたものではなく、人間の心のかたくなさのためにやむを得ず定められたものだといういのがイエス・キリストの主張です。離縁状を渡しさえすれば、離婚が正当化されるということを定めたものでは決してないのです。
ところで、この申命記24章1節に言われている「恥ずべきこと」が何をさすのか、つまりどういう理由ならば離婚できるのかと言うことを巡って、ユダヤ教のラビたちの間で二つの大きな見解があったことは有名です。一方の学派は「恥ずべきこと」に何が含まれるのかということを非常に広く理解しました。例えば料理が下手であると言うようなこともそこに含まれると考えたのです。それに対して、もう一方の学派は非常に厳格にそれを捉え、不品行以外の理由での離婚を認めようとはしなかったのです。
イエス・キリストの教えも、一見すると、こういうユダヤ教学派の見解の一つのように受け取られるかもしれません。しかし、イエスはここで「恥ずべきこと」に何が含まれるかという議論を展開しているのではありません。どんな場合に離婚は許され、どんな場合にはしてはいけないのか、そういう議論をしていないのです。ケースバイケースで離婚について考えようとしているのではなく、もっと根本的な事柄にわたしたちの目を向けさせようとしているのです。
イエス・キリストは衝撃的なことをおっしゃいました。
「妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
今の世の中、こういう発想で離婚相手のことを考える人はほとんどいないでしょう。自分から離縁を言い渡した相手が、誰と付き合おうと誰と再婚しようと、もはやどうでもいいことと関心が薄れてしまうものです。関心が薄れているから、言い換えれば愛がなくなっているからこそ、紙切れ一枚の離縁状で妻を離縁できると考えるのでしょう。
結婚しているときには、誰しも結婚相手が誰と関係を持とうと関心がないなどということはありません。もし、そんなことにでもなれば、大変な騒ぎになります。なぜなら、相手に関心があり、愛しているからです。けれども、一旦離婚してしまえば、だれもクレームをつけることもありません。それは違法なことが合法になったからではないのです。ただ、愛が薄れただけだからです。
イエス・キリストはまさに、そういう人間の愛の不確かさを嘆いていらっしゃるのです。結婚するということは、相手への関心を貫き通すことです。相手への関心を抱きつづけ、相手を大切に思う気持ちに生きることを願っていらっしゃるのです。