2005年7月21日(木)「トータルな救いの必要性」 マタイによる福音書 5章27節〜30節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
人間に対する「愛」と一言でいっても、様々な種類の愛があることは良く知られていることです。親から子どもに注がれる親子の愛。兄弟同士の兄弟愛。家族同士が互いに慈しみあう家族愛。もちろん家族の一員ではない人に向けられる「友情」や「隣人愛」も、一つの愛の形といえるでしょう。友達や隣人の枠を越えてもっと広く人を愛する「博愛」も愛です。そして男女の恋愛も一つの愛の形です。その恋愛が深まって結婚にまでいたる夫婦の愛も愛です。これらはすべて「愛」という言葉で一まとめにすることができます。
しかし、その中でも夫婦の愛は特別な扱いを受けています。それは、他の愛の形と違って、一つには夫婦の愛は排他的だからです。「排他的」という意味は、多重の愛を許さないということです。友情も隣人愛も、たった一人の人が愛の対象ではありません。何人の人を愛しても、何人の人と友達になっても、そのことで社会的に非難されることは決してありません。しかし、夫婦の愛はそうではありません。
また、夫婦の愛は排他的であるために、その始まりは自然発生的であっても、両者の間で明確な意思の表明がなされるものです。具体的には結婚の誓いの言葉や、公的機関への届け出、あるいは本人同士の約束の言葉です。もちろん、友達同士でも「友達になろう」という明確な意思の表示があるかもしれません。しかし、だからと言って、どちらかが一方的に友達関係を解消して絶交状態になったからといって、そのことが社会的な非難を招くと言うことは普通ないでしょう。しかし、夫婦の愛はそういうわけには行きません。明確な意思表示の背後には、当然負うべき責任も明らかです。社会もそのことを当然と考えています。そのように、数ある愛の形の中で、夫婦の愛は他の愛とは違った特別な扱いを受けているということです。
しかし、また他方では、この夫婦の愛や絆が、人間の罪のために、人間の歴史と同じくらい古くから絶えず危険にさらされていることも事実です。それはモーセの律法の中にすでに夫婦の愛にかかわる規定が盛り込まれていることからも明らかです。残念なことに結婚と同じ時くらい古くから姦淫や離婚についても聖書は語っているのです。これらのことを心に留めながら、きょうもイエス・キリストの言葉に耳を傾けたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 5章27節から30節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
きょうの個所では、モーセの律法に記された「姦淫」の問題が取り上げられています。「姦淫」は残念ながら人間のとてもネガティブな側面です。こういう人間のネガティブな罪深い側面から、本来あるべき人間の姿を考えなければならないと言うのは、とても残念なことです。イエス・キリストがおっしゃりたいことは、決して「〜するな」という禁止命令ではないのです。禁止命令を通して罪の現実を知り、神が望んでおられる人間の正しいあり方を考えること、これがイエス・キリストの教えておられることです。
ここで、イエス・キリストは二つのことを述べていますが、第一の点は「心」の問題です。それは先週学んだ「殺すな」という戒めにも、また他の戒めにも通じることです。イエスが問題とされているのは外に現れる「行為」ではなく、その「行為」のもととなっている「心」を問題にされていると言うことです。とくに夫婦の愛に関しては、「心」というものを抜きにして考えることは不可能です
言うまでもないことですが欲望のままに生きることは人間らしからぬ生き方です。だからと言って、心にある汚れた思いを、外に見える行いで取り繕う生き方では不十分なのです。「殺すな」という戒めに関して言えば、相手を憎しむ気持ちを隠して外面を取り繕うことだけでも十分意味のあることかもしれません。しかし、「姦淫するな」という戒めに関してはどうでしょうか。配偶者への愛がなくなり、他の人へその愛が密かに向けられているにもかかわらず、なお外面さえ取り繕っていればそれだけでも十分意味があるとは絶対に言えないのです。神が望まれる夫婦の愛に生きるには、他のどの戒めにもまして、何よりも心の中にある思いを清めていただかなければなりません。
では、どうすれば清い心が与えられるのか、イエス・キリストはここでは何もお語りになっていません。しかし、福音書が語るイエス・キリストこそがその答えなのです。このイエス・キリストのもとへと来るために、自分の現実の心の姿を知らなければなりません。
二番目にキリストが語っていることは、一見すると一番目の教えと矛盾しているように見えるかもしれません。なぜなら、あたかも罪の原因が目や手や体の一部にあるかのような言い方をしているからです。心にこそ罪の原因があるのなら、心を切り捨てなさいと言うことになるでしょう。しかし、心を切り捨ててしまったならば、もはや人間ではなくなってしまいます。
イエス・キリストがここでおっしゃりたいことは、体のどこを切る取るかということが問題なのではありません。そうではなく、全身の救いが問題なのです。もちろん、誰しも体の一部だけの救いを考えているわけではありません。しかし、些細な枝葉末節な議論にこだわるあまり、トータルな人間としての救いの完成を見過ごしてしまう危険があるのです。特に当時の律法学者やファリサイ人たちの議論にはそういう危険が潜んでいたのです。
また、それとは正反対に、些細な事柄として放置してしまうがために、トータルな人間としての救いを台無しにしてしまう危険も潜んでいます。丁度小さなカビが食べ物全体にあっという間に広がってしまうのに似ているかもしれません。
罪の小さな芽をどうするかの議論にこだわりすぎるのでもなく、しかし、これを放置するのでもなく、トータルな人間としての救いをいつも求めていく姿勢が大切なのです。
とくに夫婦の愛に関して言えば、相手の一部分だけを愛するのでもなければ、自分の一部分だけを持って愛するわけでもありません。人間として全身全霊をもって相手を愛するのですから、何よりもトータルに人間として完成される救いが必要なのです。