2005年7月14日(木)「『殺すな』とは」 マタイによる福音書 5章21節〜26節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
新しい手口の犯罪とが次々に出てきては世間を騒がせます。よくそれだけ悪知恵が回るものだと感心している場合ではありません。人間の心の奥底に潜む欲望の深さを思い知らされます。
しかし、それとは反対に、昔から一向に変わらない犯罪もあります。殺人や窃盗は古典的な犯罪と言ってもいいかもしれません。こんな罪深い事柄に「古典的」などと言う修飾語をつけるのは憚られますが、古典的な犯罪事件を耳にする時も、人間の心の奥底に潜む欲望の深さを思い知らされます。
犯罪の問題を扱うのは国の刑事政策の問題です。法律の専門家ばかりではなく、心理学者や教育学者もそこに絡んでくるかもしれません。よい政策が立てられることを願ってやみません
しかし、同じ事柄を聖書はもっと別の角度から考えます。人間の心の根底にあるものを見つめ、神の御前で生きる人間のありかたそのものを聖書は問題にしているのです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 5章21節から26節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
「殺してはならない」という教えは、モーセの十戒に教えられていることです。この戒めを破ることは、それをお定めになった神の御心に反することであるのは言うまでもありません。しかし、それと同時にどこの国の法律でも殺人は犯罪として処罰の対象とされています。逆に法律によって定められた殺人罪を犯すのでなければ、誰も殺人罪として処罰されることはありません。では、国の法律が定める殺人罪を犯さなければ、それで神の御心を十分に満たしたのかというとそうなのではありません。この「殺してはならない」という戒めによって神がわたしたちにどんなことを求めていらっしゃるのかを深く考えさせるのがキリストの教えです。
イエス・キリストはおっしゃいました。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」
まずキリストは昔のユダヤ人たちの言い伝えとご自分のお考えを対比させています。「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」という昔からの言い伝えは、それ自体間違ったことを言っているのではありません。ユダヤの世界でも当然人を殺すことは禁止されていましたし、その禁止を破った者は裁判によって正しく裁かれることが定められていました。しかし、キリストは「殺す」という外に現れる行動より前に、その行動を促す心のあり方、「怒り」について問題にされているのです。
怒ったり腹を立てたりということは誰にでもあることです。それをいちいち咎められれば、余計ストレスがたまってしまうと言うかもしれません。けれども、殺人の根底にある「怒り」をコントロールできないとすれば、神の前に正しく生きることはできないのです。神は殺人と言う行動そのものにも増して、その行動に駆り立てる「怒り」という心のあり方に目を留めておられるのです。神の目には、兄弟に対して腹を立てることは決して些細なことではないのです。
イエス・キリストはさらに続けてこうおっしゃいました。
「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」
「ばか」と言う言葉も「愚か者」と言う言葉もどちらも人をなじったりののしったりする時に使う言葉です。人を人とも思わない、相手を人間として大切に思わない時に出てくる言葉です。そのような扱いを仲間に向かってする者は、最高法院に引きわたされたり、火の地獄に投げ込まれたりするとおっしゃるのです。先ほどの「裁きを受ける」というのとは違って、もっと重い処分が待っているとイエス・キリストは警告します。
「ばか」と言う言葉も「愚か者」と言う言葉も、つい口をついて出てきてしまう言葉かもしれません。そんな言葉が最高法院の裁きや、火の地獄に価するとは誰も考えはしないでしょう。しかし、この言葉が口をついて出てくるその人の意識は、明らかにもっとも大切な戒めの一つである「隣人を愛すること」からもっとも遠く離れてしまっているのです。それは隣人愛の戒めに反するばかりではなく、その人をお造りになった神をもないがしろにすることなのです。
イエス・キリストによれば、結局、「殺してはならない」という戒めによって神が求めていることは、隣人を心から愛し、その隣人をお造りになった神を心から敬うことに他ならないのです。
さて、イエス・キリストは兄弟に対して腹を立てたり、「ばか」と言ってののしったりする心のあり方だけを問題にしているのではありません。そのような扱いを受けた人がどう賢く振る舞うべきかも教えていらっしゃるのです。売り言葉に買い言葉とよく言われますが、相手のしたとおり、相手にもし返せば、ますます憎しみはエスカレートする一方です。イエス・キリストは何を差し置いても仲直りの道、和解の道を求めるようにと勧めています。
祭壇に供え物を献げるのを中断してでもそうするようにとおっしゃっていらっしゃるのですから、これは優先順位の高い要求と言わなければなりません。考えてもみれば、隣人を愛するようにと命じられたのは神なのですから、その隣人関係が歪んだままで、自分だけが神との関係を正しく保つことなどできないことなのです。
「殺してはならない」という戒めの中にも、結局は徹底した隣人愛と神への愛が求められていると言うことなのです。