2005年7月7日(木)「律法を完成するために」 マタイによる福音書 5章17節〜20節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「わたしが来たのは〜するためではなく、〜するためである」と言う言葉をイエス・キリストはしばしばおっしゃいました。たとえば、きょう取り上げようとしている個所には「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とおっしゃっています。こうした言葉は特にマタイ福音書にはよく記されています。他にもたとえば、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」などの言葉があります。どの一つを取ってみても、そこには遣わされたメシアとしての使命が述べられ、また同時にメシアの使命の意外さが表現されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 5章17節から20節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
メシアは何のためにやってくるのか、何のために神から遣わされてくるのか、それはとても興味深い問いです。特に長年メシアの到来を待ち焦がれていたユダヤ人たちは、期待のこもった答えをもっていたはずです。
番組のはじめにも取り上げましたが、イエス・キリストは「わたしが来たのは〜するためではなく、〜するためである」とおっしゃって、ご自分が神から遣わされてきた使命をはっきりと告げられました。それらの言葉は、当時のユダヤ人の期待していたメシア像からすれば、意外なものばかりでした。義人ではなく罪人を招かれるメシアというのは考えも及ばなかったことでしょう。平和ではなく剣をもたらすメシアと言うのも考えにくかったかもしれません。そういう意外性という点からすると、きょう取り上げるイエス・キリストの言葉は、当時ユダヤ人が抱いていたメシア観からすれば、それほど意外ではなかったかもしれません。少なくとも、彼らにとってメシアが律法や預言者を完成するために来るというのは、当然のことだからです。むしろ、ユダヤ人たちにとって、イエス・キリストの言葉で意外に響いたのは「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」という部分だったに違いありません。律法学者やファリサイ派の人々の義は完璧に近いと思われていたのですから、それ以上の義を求めるメシアに人々は驚きを感じたに違いありません。
ところで、きょうの個所で取り上げる「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言う言葉は、イエス・キリストがおっしゃった「わたしが来たのは〜するためではなく、〜するためである」という一連のシリーズの言葉の中では、一番意外性の少ない言葉だということを先ほど述べました。確かに律法を成就し完成するメシアならば、ユダヤ人のメシア像にも合致しています。けれども、そうであるとすると、イエス・キリストの言葉は一体誰に向かってなされたのかという疑問が浮かびます。特に前半の「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」といわれる人々は一体誰なのでしょうか。もちろん、この言葉はイエスの説教を聴きに来たイエスの弟子たちに対する言葉です。とするならば、イエスの弟子たちはイエスが律法や預言者を廃止するために来たのかもしれない、と思っていたということなのでしょうか。確かに、後のイエス・キリストの行動を見ていると、たとえば安息日や断食に関してはとても自由に行動されるように見えます。そうしたイエスの行動を、律法や預言者を廃止するための行動と理解する人が出てきたとしても不思議ではありません。そのような将来予想される誤解を見越して、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」とイエスは釘をさしたのかもしれません。
ところが、イエス・キリストが来られたのは律法や預言者を完成するためであるという場合、それはユダヤ人たちが考えていたような律法や預言者の完成ではなかったのです。キリストが要求していることは、律法学者やファリサイ派の人々にまさった義でした。律法の完成を目指すと言う点では、一見、ファリサイ派や律法学者たちと一致するように見えるのですが、キリストが要求されている律法の完成は、ファリサイ派や律法学者の人々の上を行くものでなければならないと言うのです。
ここまでキリストの言葉を読み進める時に、あまりにも厳しい要求にとまどいさえ覚えます。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」などと言われると、一体誰がそのような要求に応えることができるのかとたじろいでしまいます。いったい「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」とは何なのかと思いたくなってしまいます。
いったい誰がこのような要求に応えることができるのだろうかという問い対しては、実はイエス・キリストの言葉それ自体が答えを備えています。イエス・キリストは「わたしが来たのは律法や預言者を…完成するためである」とおっしゃっているのです。わたしたちの義を律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義としてくださるのはイエス・キリストのメシアとしての使命でもあるのです。わたしたちはご自分の使命をそうお語りになるイエス・キリストに信頼するより他はありません。
では、もう一つの疑問、いったい「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」とは何なのかと言うことに関しては、21節以下に展開されるイエスの律法理解によって明らかにされます。それは様々な想定に基づいて律法をこまごまと適用していこうとするファリサイ派や律法学者の律法観とは根本的に異なるものです。律法が要求している根本の問題を常に正面に据えて、言い換えれば律法によって表現されている神の御心を絶えず成就しようと取り組む姿勢で律法を理解することなのです。もっと具体的に言えば、律法に表現された神への愛と隣人への愛を成就することが、ファリサイ派や律法学者の義にまさる義なのです。そして、神への愛と隣人への愛を全うするために、イエス・キリストは来られたのです。