2005年6月23日(木)「幸いな人々」 マタイによる福音書 5章1節〜12節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
誰もが願うこと、それは幸せであるということではないかと思います。他人のことまで幸せを願う余裕のない人でも、少なくとも自分の幸せだけは心のどこかで願っているものです。もっとも、幸せとは何かという具体的なイメージは人によって違うかもしれません。それでも、人々の願う幸せには共通したものがあります。日本では昔から「無病息災」「家内安全」「商売繁盛」などと言われています。確かに病気をせず健康でいることは大切なことです。家族のみんなが平穏無事でいることは、自分一人が平穏無事な暮らしをしている以上に幸せを感じます。また利己的な意味ではなくて、自分の生業とするところのものがにぎわいさかえることは、社会への貢献にもつながり、喜びと幸福感を味わえることでしょう。
しかし、イエス・キリストはこれらの幸せとは違った幸せについて語ってくださいました。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 5章1節から12節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
今週から取り上げようとしている聖書の個所は、いわゆる「山上の説教」として知られている有名な個所です。マタイによる福音書の5章から7章まで、3つの章にわたってイエス・キリストの教えがまとめて記されている個所です。「山上の」と呼ばれる理由は、5章の冒頭のところで、イエスが集まってきた群衆を見て山に上られたと言うところから来ています。山に登って教訓を垂れたという意味で、これらの個所を「山上の垂訓」と呼ぶ人もいます。
また、イエスが山に上られ教えを垂れたことと、旧約時代にモーセがシナイ山に登って神から律法を授かり民たちに教えたこととを対照的に捉える人もいます。つまり、旧約時代の民にとってモーセの律法が果たした役割が大きかったように、イエス・キリストの山上の説教もそれ以上に新しい大きな役割があると理解する人たちです。確かに山上の説教に語られている言葉は、クリスチャンにとってはもちろんのこと、そうでない人々にも与えた影響は計り知ることができません。もっとも、イエス・キリストの山上の説教を「新しい律法」と考えてよいのかは疑問です。
さて、山上の説教でイエス・キリストが最初に口を開いて教えたのは、幸せについてでした。先ほどお読みした個所がそれです。ここには「幸いである」と言う言葉が9回繰り返されています。それは9種類の人々の9種類の幸せについて語っているようでもありますが、しかしまたそれは、同じ人々の中に宿る幸せを様々な面から語っているようにも受け取れます。あるとき人は、貧しさの幸いを知り、また別なときには悲しさの幸いを知ると言った具合です。確かに幸せというものは、これ一つと言い表せるようなものではないのかもしれません。人生は変化に富んでいます。一つの状態から他の状態に変化したとき、幸せになったり不幸せになったり、というものなのではなく、人はどんな状態にあっても幸せでいることができる、と言うことを教えているようでもあります。
また、ここに記された9つの幸いについてみるときに、わたしたちが普通にイメージする幸せとは必ずしも思えない事柄も取り上げられています。例えば「悲しむ人々」がなぜ幸いと言うことができるのでしょうか。普通わたしたちが考える「幸い」はそうではないでしょう。悲しむようなことがない方が誰しも幸いと考え、無病息災・家内安全を願うのではないでしょうか。
あるいは、「義に飢え渇く人々」や「義のために迫害される人々」が幸いであるというのも、突き詰めて考えてみるとおかしな話です。義に飢え渇くほど正義や公平が失われた社会に生きることが、どうして幸いと言えるのでしょうか。まして、義のために迫害まで受けるまで苦しむことがどうして幸いなのか、イエスの言葉の表面をかすっただけでは理解できないものもあります。
そもそも、イエス・キリストが山上の説教で語る「幸い」というのは、「追求して得るもの」という幸福のカテゴリーには当てはまらないものが大半です。普通わたしたちが考える幸福は、不断の努力によって追求し実現していくものです。しかし、イエス・キリストは、幸せになるためにあえて貧しい人になれとは言いません。幸せになるために悲しむ人になれともいいません。むしろ、貧しかったり悲しんでいたりする者の幸いを語っているのです。
けれどもイエス・キリストが語っているのは「心の貧しいこと」それ自体がが幸いなのでもなく、「悲しんでいること」それ自体が幸いなのでもありません。それぞれに幸いである理由があるのです。
「天の国はその人たちのものであるから」「その人たちは慰められるから」「その人たちは地を受け継ぐから」「その人たちは満たされるから」「その人たちは憐れみを受けるから」「その人たちは神を見るから」などなどです。
要するにその人たちが置かれた状態が何であれ、肝心なことはそれを通して、神の恵みに触れることなのです。そういう幸いをイエス・キリストは教えてくださっているのです。イエス・キリストが教える本当の幸いとは、結局、神の存在に触れ、その恵みを味わうことを抜きにしては成り立たないのです。
幸福を追求すること、幸福を願うことの背景には、今自分が生きている世界が実際には幸福ではないか、あるいは幸福であったとしてもそれが長くは続かないかも知れないと言う心配があるからです。イエス・キリストの教える幸いも、このままで今生かされている人生が幸いだなどと言っているのではありません。そうではなく、この人生がどんなに苦しみや悲しみに感じられたとしても、それにもまさる神の恵みに出会う道となれば、それは幸いな人生なのです。