2005年6月2日(木)「宣教の開始」 マタイによる福音書 4章12節〜17節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
以前、古代の文献の読み方について記した入門書を読んだことがあります。その中で戦争の歴史を扱った「戦記」と呼ばれる書物の読み方に、こんな注意が記されていました。それは「進撃」とか「前進」という用語に惑わされないで、実際に地名を地図で当たってその場所を自分で確認するようにというものでした。古代の歴史家たちは、少しでも自分たちの歴史を美しく描こうとして、実際には戦況が不利で後退しているにもかかわらず、「果敢にも前進した」というようなことを書くことがあるからだそうです。
きょう取り上げる個所には「退いた」という言葉が出てきますが、どういう意味で「退いた」といえるのか、注意が必要です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 4章12節から17節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
きょう取り上げるのは、いよいよイエスが宣教活動を開始されるいきさつを描いた個所です。ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエスは、その後、荒野でサタンからの誘惑を受け、それを見事に跳ね除けてメシアとしての活動の備えを整えました。それが先週までに学んだことでした。
きょうの個所は、洗礼者ヨハネが逮捕された噂を聞いて、イエスがガリラヤに退かれたという場面から始まります。
洗礼者ヨハネが逮捕され、処刑されるいきさつについては、あとで14章でもう少し詳しく記されます。洗礼者ヨハネは道徳的に許されない結婚のことでガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスを公然と非難したのでした。それはヘロデが義母兄弟フィリポの妻ヘロディアを自分の妻としたことを巡るものでした。
このヨハネが捕らえられたと聞いて、イエスはガリラヤに「退いた」とマタイ福音書には記されています。「退いた」という言葉の響きはいかにも消極的な印象を受けます。ヨハネから洗礼を受けた自分のところにも領主ヘロデの手が伸びてくることを恐れたから退いたのでしょうか。
しかし、領主の手から逃れたいのであれば、その領土から出て行くのが普通です。ところが、「退いた」とはいいながら、実際にはヘロデの領地ガリラヤにイエスは赴いているのです。わざわざヘロデの領地に行くのですから、ヘロデにとってイエスの行動は挑発的な態度と言えなくもありません。それにもかかわらず、マタイによる福音書は「退いた」とイエスの行動を記しています。
確かに、エルサレムを中心にものを見れば、ガリラヤは辺境の地ですから、「退いた」と表現するのは自然かも知れません。荒野での誘惑から戻ってきたイエスは、都エルサレムには上られず、ガリラヤに退いたのです。しかし、マタイによる福音書は地理的な意味では「退いた」と記しながらも、その「退き」を消極的な「退散」とは明らかに違った目で見ています。
マタイによる福音書はすかさず旧約聖書イザヤ書の預言を引用してこう言っています。
それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
実はここで使われる「退く」という言葉は、すでに数回マタイ福音書の中に登場しています。東の国からやってきた博士たちがヘロデ大王のところへ立ち寄らずに、自分たちの国へ帰っていく場面で。また、ヨセフ一家が幼子イエスを連れてヘロデ大王の企てから逃れてエジプトへ避難する場面で。さらにまた、エジプトから戻ったヨセフ一家が領主アルケラオを恐れてユダヤの地からガリラヤに退く場面で、それぞれここで使われるのと全く同じ言葉が使われています。
確かに、それは人間的に見て危害を恐れた後退のように見えます。また、地理的に言ってもそれは地方への退却です。しかし、どの場合にも共通していることは、それが人間的に見た退却や後退であっても、それを命じておられるのは神ご自身であるという言うことのなのです。彼らはいずれも神のお告げに従って退いているのです。
イエスがガリラヤに退いたのも、ただ人間的な動機からではなかったのです。神の預言の言葉を成就し、神の御心を成し遂げるためだったのです。
神の御心は、中心地エルサレムから神の国の宣教の働きが始まることではなく、まさに暗闇と思われたガリラヤから宣教の御業が始まることだったのです。この神の御心の前に、何よりも人間の思いが退かなければならないのです。
さて、イエスが上げた宣教の声は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」というメッセージでした。この言葉は、洗礼者ヨハネの伝えたメッセージと同じです。確かに、表面的な言葉は瓜二つですが、ヨハネのメッセージとイエスのメッセージには決定的な違いがありました。なぜなら、洗礼者ヨハネが伝えたのは、主のための道を備えるためでした。近づきつつある神の国の到来に備えて悔い改めを勧めていたのです。それに対して、イエスは、そのヨハネが伝え、準備してきた「来るべきお方」そのものなのです。
後にイエスはこうおっしゃいました。
「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28)
神の国はイエスと共に正にわたしたちのところへやってきているのです。この神の国をもたらすお方の前にわたしたちは自分の人間的な思いを退け、真実な悔い改めをするように求められているのです。