2005年5月12日(木)「悔い改めの要求」 マタイによる福音書 3章1節〜12節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
救いの確信ということと裁きに対する不安というのは、対立しているように思われます。もし、自分が救われると言う確信が持てたなら、最後の審判での裁きを恐れる不安から解放されるはずです。逆に、最後の審判のことを恐れて、自分は救われないのではないかと不安に思っているうちは、救いの確信など持つことはできません。
けれども、長い信仰生活を送るうちに、いつもこの二つの間を揺れ動くのがクリスチャンであるような気がします。確かにキリストが勝ち取ってくださった救いは揺るがないものです。そういう意味では、クリスチャンの救いの確信の土台は、自分の内側にあるのではなく、まさにキリストこそが救いの土台であり、救いを保証してくださるのです。
しかし、他方では、クリスチャンと言えども、この地上にある限り完全に罪から清められているわけではありません。罪のために苦しむと言うことも事実です。そういうとき、そのままでは神の国にふさわしくない自分の現実の姿に不安をくこともあります。しかし、そのことが、悔い改める気持ちを呼び覚まし、救いを求めていっそうキリストのもとへと駆り立てるのであれば、信仰の成長にとってとても役立つことです。逆に自分の現実の姿に鈍感で、救われることを当然のことと思っているとすれば、そのような救いの確信はかえって本当の救いから自分自身を遠ざけてしまうように思います。
きょうは救い主イエス・キリストを迎えた選民である当時のイスラエル人たちの様子から学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 3章1節から12節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
少し長い個所でしたが、一回で取り上げてしまいたいと思います。ここには、イエス・キリストの先駆者として、救い主が到来する道を備える役目を果たす洗礼者ヨハネのことが記されています。洗礼者ヨハネは、かつて預言者イザヤを通して預言されていたように、荒れ野で主のために道を整える働きをする人物でした。ヨハネ自身は待望のメシアではなく、「荒れ野で叫ぶ声」として登場します。神の国の到来が間近に迫っていることを告げ知らせ、人々にまことの悔い改めを求めていました。心からその罪を告白し、悔い改める者には洗礼を授けていたのです。
この洗礼者ヨハネが宣べ伝えていたメッセージの中心は、「悔い改めよ」というものでした。それも、厳しい態度で真摯な悔い改めを求めるものでした。そこに描かれる洗礼者ヨハネの姿は差し迫る裁きの現実を厳しく伝えるヨハネの姿です。良い実を結ばない木をみな切り倒して火に投げ込み、もみ殻を消えることのない火で焼き払ってしまう審判者の姿を伝えるヨハネです。このような裁きの時が間近に迫っていることをヨハネは伝え、恐れをもって心から悔い改めるようにと迫ります。
特に洗礼者ヨハネが、悔い改めるようにと迫っているのは、一般民衆に対してではなく、ファリサイ派やサドカイ派の人々に対してでした。サドカイ派の人たちは宗教的にも政治的にも特権階級の人たちでした。また、ファリサイ派の人たちは選民意識の強い真面目な人たちでした。誰よりも自分たちの救いを確信していた人たちであったといってもよいでしょう。その彼らに対して、「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と辛らつな言葉を浴びせます。
「我々の父はアブラハムだ」とは、ユダヤ人にとっては誇りある言葉でした。信仰の父であり、神の友であるアブラハムの子孫であることは、まさに動かしがたい選民のしるしだったのです。確かに、神は歴史の中でアブラハムの子孫である者たちを恵み深くもご自分の民としてお選びになりました。その恵みを恵みとして謙虚に受け止めるかぎりでは、選民であること、神の選びの民であることは素晴らしいことだったに違いありません。けれども、いつしかそのことが自分たちの特権意識と結びつき、他の人々をさげすむ時に、恵みが恵みではなくなってしまっていたのです。アブラハムを父に持つというだけで、それだけで悔い改める必要もないかのような錯覚をいだいているとすれば、それこそ大きな勘違いです。
ところで、この洗礼者ヨハネの話は、イエス・キリストが到来するに当たって、キリストを迎える準備をする選民イスラエルの話です。ではすでにキリストが到来し、悔い改めてキリストを救い主として受け入れたクリスチャンにとって、この洗礼者ヨハネのメッセージを聞くことにはどういう意味があるのでしょうか。ただ、初心に立ち返るための教訓として読めばそれで十分なのでしょうか。そうではありません。選民であったイスラエル民族に関わることは、クリスチャンにとっても注意を要することなのです。さすがに「我々の父はアブラハムだ」と思うクリスチャンは少ないかも知れません。しかし、「われわれはキリストと結びついて神の子だ」と思うクリスチャンはたくさんいます。聖書にそう書いてあるからです。しかし、その信仰の確信が、罪と戦い、罪を悔い改める気持ちを薄めてしまうのであるとすれば、その確信は歪んだ確信です。
神の前に罪を悔い改める姿勢はいつでも求められていることなのです。救いの恵み深さを知れば知るほどに、罪を憎み、罪を悔い改める思いが募らないとしたら、それは実を結ばない木、中身のない籾殻と同じなのです。
キリストのうちにある救いを確信しつつ、いつも罪を悔い改める思いを持ち続けましょう。