2005年4月21日(木)「遥々と」 マタイによる福音書 2章9節〜12節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
テレビを見ても、ラジオを聞いても、はたまた雑誌を読んでも、星占いのないものがないくらい、わたしたちの国では星占いがポピュラーなものになっています。
その星占いのルーツをたどっていくと、何千年も昔の世界にさかのぼることが出来ます。古代バビロニアの天文観測は、一方では天文学へと発展しますが、他方では正に星占いへと発展します。現代のわたしたちにとっては、天文学と占星術は全く違う分野のものですが、当時の人々にとっては重なり合うものがあったのです。天文現象の記録に始まり、やがては国や王侯に関する占いへと発展していきます。きょうの個所で登場する学者たちもそうした占星術の学者だったのです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 2章9節から12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
先週に引き続き、イエス・キリストがお生まれになったときのことをとりあげます。前回のお話では、お生まれになったイエス・キリストに対して、人々がどういう態度でかかわりを持っていったのか、三つのカテゴリーに分けてみてきました。その三つとは、キリストに対して恐れと敵意を抱く人、二番目のグループはキリストに対して無関心な人、そして、三番目のグループはキリストに対して関心と敬意を持った人でした。先週のお話では、最初の二つのグループの人々について取り上げました。今週は最後のグループについて取り上げたいと思います。
その人々とは、東の国からやってきたという占星術の学者たちでした。ここで「占星術の学者」と翻訳されている単語はギリシャ語の「マゴス」という言葉が使われています。その同じ単語は使徒言行録13章6節では「魔術師」と翻訳されています。実はこの「マゴス」という言葉は英語のmagicianという単語の語源にもなっている言葉なのです。「占星術の学者」というと聞こえがいいのですが、先ほどもお話しした通り、一方では天文学の知識を備えた人ではあるのですが、他方では怪しげな魔術や占いにも通ずる道を知っていたの人なのです。
やって来た学者たちの数は、三つの贈り物から類推して、「三人の博士」などと言われるようになりました。やがてこの物語を読む人々の想像はどんどん膨らんで、三人の名前はカスパル、メルキオール、バルタザールと決められ、一人は老人、一人は壮年、一人は若者、しかも、一人は肌の色が黒とまで決められるようになりました。しかし、聖書はそういった細かな事柄に全くの関心を寄せてはいません。むしろ、彼らが東方で見た不思議な星を頼りに、遠路遥々やってきて、喜びをもってキリストを礼拝する様子を中心に描かれます。
不思議なことですが、キリストの誕生の場所からもっとも遠く離れた者たちが、もっともキリストの誕生に関心を寄せているのです。
考えても見れば、不思議な星を見たというだけで、その現象の意味を確かめにでかけるというのは、随分冒険のような気がします。ちょっと隣りの町へ様子を見に行くと言うのとは違います。どれぐらい遠くから来たのかは詳しく記されていませんが、少なくともよその国から遥々来たことは間違いありません。それ相応の旅支度も必要だったことでしょう。占星術の学者としての「好奇心」と言ってしまえばそれまでかもしれません。しかし、ただの「好奇心」と言うほど軽いものでもなかったはずです。旅には時間もお金も掛かったはずです。たくさんの犠牲も払わなければなりません。生まれたかもしれない余所の国の王様のことなど、どうでもいいといってしまえば、それで済ますことも出来たはずです。しかし、彼らは誕生した王に会いたいと願い、贈り物を携えて遠路遥々旅をしたのです。まったくの骨折りに終わるということもあるかもしれなかったのです。それでも、あえて旅をしたのです。少々大袈裟な言い方かもしれませんが、彼らはこのことに人生をかけていたのです。
この占星術の学者たちの姿は、不安と敵意を抱いたヘロデ大王の姿や、無関心のままにその場をやり過ごした祭司長や律法学者の態度とは対照的です。占星術の学者たちのそのような熱心な態度を、キリストに会おうと願う強い信仰によるものだと言ってしまうのは、言い過ぎかもしれません。しかし、他のどんな登場人物よりもキリストに会うことを望んでいた点で、これから先に信仰を持つようになる人々の先駆者的な役割を担っていると言ってよいかもしれません。彼らは旧約聖書に記された預言の言葉など何一つ知らなかったことでしょう。しかし、それでもキリストに会おうと思い、実際、そのチャンスを掴んだのです。星に導かれるままにキリストのもとへとたどり着いた学者たちのことを、マタイ福音書は「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と描いています。この溢れるほどの喜びは、ヘロデにも祭司長にも律法学者にもないのです。
ところで、彼らは生まれたキリストに会った時、贈り物を献げてキリストの前にぬかずいたとあります。その贈り物とは「黄金、乳香、没薬」の三つでした。最初の二つ、黄金と乳香は、それぞれ王にふさわしいものであることは想像がつきます。きらびやかな黄金は王の尊厳さを示すでしょう。また、乳香は王の気品を感じさせる香りを放つことでしょう。しかし、普通は死体を埋葬する時に使う没薬は一体何のために贈り物として献げられたのか、不思議な気がします。
そこで、この贈り物に関しては様々な説明が加えられました。没薬は死とかかわりのあるものであるために、この贈り物はキリストの十字架の苦しみを暗示するものであるとも考えられました。しかし、また、これら三つの献げものが、いずれも占星術とかかわりのある品であるとも言われています。そうであるとすれば、正に彼らは商売道具である大切な品々をキリストに明渡すことにとって、完全な服従を表したともいえるのです。
結局のところヘロデ大王も、祭司長や律法学者も、キリストに対して自分を明渡すことが出来なかったのです。それで、不安を抱いたり、無関心であったりするしかなかったのです。
あの占星術の学者たちのようにキリストの前に自分を明渡す時にこそ、本当の平安と喜びとが満ち溢れるのです。