2005年4月7日(木)「系図に見える神の恵み」 マタイによる福音書 1章1節〜17節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 今月から新しい聖書の個所の学びに入りたいと思います。新約聖書の一番最初の書物、マタイによる福音書の学びです。誰もが新約聖書をはじめて手にしたときに、その巻頭を飾るマタイ福音書の系図の長さに面食らってしまったのではないかと思います。旧約聖書にあまり馴染みのない人にとっては、カタカナの名前が羅列されているだけにしか思えない個所です。この退屈とも思える個所を、あえて飛ばし読みしないで最初から取りあげることにします。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 1章1節から17節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。
 ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
 バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。

 きょうの放送を途中からお聴きになった方にとっては、何だか呪文のような聞きなれない単語が延々と続いているように思われたかも知れまません。これが新約聖書の最初の書物、マタイによる福音書の出だしの部分なのです。もし、あなたが物書きの立場なら、こんな退屈な書き出しで文章をはじめたら、誰も最後まで読む人はいないだろうと思うことでしょう。

 しかし、これを手にした最初の読者、救い主の誕生を心待ちにしていたユダヤ人たちにとっては、この系図こそ重要な意味を持っていたのです。そもそも、神に選ばれた民ユダヤ人にとって、自分がその民族に属することを証明するものは系図以外になかったのです。旧約聖書ネヘミヤ記の中には、自分の家族がイスラエルに属するかどうか示すことがでなかった者や、家系の記録を発見できなかったために祭司の職を追われた者の話がでています(7:61-65)。まして預言された救い主となれば、その正当性は系図によってこそ証明されなければなりません。

 ところで、1章の1節は、この系図全体の表題といってよいかもしれません。この系図は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」なのです。この表題のつけ方は旧約聖書の系図の書き方と比べて面白い点があります。

 例えば旧約聖書の創世記にはたくさんの系図が記されています。マタイ福音書に出てくるアブラハムの系図も創世記の中には記されています。しかし、創世記が「だれそれの系図」と表題をつけて記しているのは、その人物から生まれ出た子孫の系図です。ところが、マタイ福音書が記しているイエス・キリストの系図は、キリストの子孫の系図ではありません。キリストに至るまでの系図なのです。もちろん、イエス・キリストの血筋を証明するために書かれた系図ですから、イエス・キリストの先祖からキリストに向かって書くのは当然でしょう。しかし、創世記が記すような子孫に向かって下っていく系図をイエス・キリストについて書くことが出来るのかと言うと、その必要性すらもはやないのです。なぜなら、キリスト教には「神の民」という概念はあっても、もはや特定の血筋や民族と「神の民」とは結びつかないからです。だれでも、キリストを信じる人が神の子であり、神の民なのです。そういう意味で、キリストは系図の最後となられたのです。

 さて、この長々とした系図は17節によると、三つの時代に区切られ、それぞれが14代になるように記されています。その三つの時代は旧約聖書の歴史を知っている人には、すぐにもイメージできる時代です。最初のアブラハムからダビデの時代までは、イスラエルにとってはまさに栄光と繁栄に向かう時代です。次のダビデからソロモンを経てヨシヤに向かう時代は、民族が神への背反を繰り返し没落に向かう時代です。第三の時代は、そこに名前が記されたゼルバベルまでぐらいがせいぜい人々の記憶にあるくらいで、それ以降に記された名前は、知る人ぞ知るに過ぎない、そういう時代だったのです。しかし、人からは忘れ去られ、取るに足りない一民族に成り下がったこの民族に、神の恵みの約束は実現したのです。旧約の時代から連綿と続くこの系図を見るときに、そこに神の約束の確かさを見ることができるのです。

 最後に、この系図には他の旧約聖書の系図と違って、4名の女性が記されています。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、それぞれ、旧約聖書の中で逸話のある人物です。それにイエスの母マリアを加えると5名になります。もし、この系図がイエス・キリストの血筋を証明するために書かれたのであるとすれば、女性の名前は書き留める必要はなかったでしょう。しかし、神はかつてエデンの園でエバを誘惑した蛇にこう言われたのです。

 「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。 彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く」(創世記3:15)

 神が約束した救い主は女の末から現れるのです。サタンに致命的な一撃を加えるのは、女の末から生まれ出る救い主によってなのです。