2005年3月24日(木)「余計なことをしている者」 テサロニケの信徒への手紙二 3章10節〜15節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「怠惰である」ということは、聖書の言葉に聞くまでもなく、この世の常識から言っても褒められたことではありません。しかし、「怠惰である」という言葉の中身には十分注意しなければならないかもしれません。そうでなければ、働きたくても働けない弱い立場の人々が、皆、怠惰な人間だと非難されてしまうからです。

 それから、怠惰であるということと、経済的な効率の悪さとを同じと考えることも避けなければならない場合もあります。確かに怠惰であることは経済的な効率も悪いといえるでしょう。しかし、経済的な効率を優先した働きをしなければ、みな怠け者だとはいえません。たとえば職人さんが一日に一つの製品を作り上げるのは、大量生産のラインで働く人たちに比べれば経済的な効率は悪いかもしれません。しかし、だからといって、その人たちが怠惰なわけではありません。

 きょうこれから取り上げようとしている聖書の個所には、「怠惰」とはただ「少しも働かない」というだけではなく、「余計なことをしている者」とも言い換えられています。これは面白い表現だと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙二 3章10節から15節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。

 先週に引き続き、「怠惰」について、テサロニケの信徒への第二の手紙から学びたいと思います。

 パウロは怠惰に関してテサロニケの教会の人たちに教える時に、二つの対象に語りかけています。それは実際に怠惰な暮らしを送っている人たちに対しての語りかけと、そうでない人たちに対する語り掛けです。先週は怠惰な人たちを抱えている教会員たちに対する言葉を学びました。彼らには、引き続き使徒たちの模範に倣うようにと勧めました。それと同時に、教会の中にいる怠惰な生活の者たちから離れるようにとも命じました。

 今回取り上げようとしているのは、実際、教会の中で怠惰な暮らしを送っている教会員たちに対する言葉です。その人たちが何故怠惰な暮らしを送っているのか、その理由については先週お話したとおりです。つまり、間違った終末論を信じてしまっているために、今ここで働くということの意味を見失っている人たちであったということです。そして、もう一つ考えられる可能性は、そういう怠惰な暮らしをしていても、教会がそういう人々の暮らしまでも面倒を見てしまっているということがあったのかもしれません。

 そこでパウロは、テサロニケにいたときに命じておいた言葉を繰り返して、キリスト者としてどう生活を送るべきかを確認しています。その言葉とは「働きたくない者は、食べてはならない」というものでした。

 ここで注意しなければならないことは、「働かざるもの、食うべからず」とパウロが言っているのではないということです。働きにつけない人は世の中にたくさんいます。そういう人は皆食べてはならないといっているのだとしたら、これは大変なことです。病気や障害をもっているために働くことができない人は生きていけないことになってしまいます。

 そうではなくて、パウロが言っていることは、「働きたくない者」「働こうとしない者」…そういう人をパウロは問題としているのです。

 しかし「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていたにもかかわらず、残念なことにテサロニケの教会には、怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいたということです。

 パウロはここで「怠惰な生活をする者」たちのことを「少しも働かず、余計なことをしている者」と呼んでいます。怠惰な者たちが「少しも働かない」というのは分かります。しかし、何もしないのかというと、そうではありません。「余計なことをしている」というのです。もともとのギリシア語では「働く」というのが「エルゴマイ」というのに対して、「余計なことをする」が「ぺリエルゴマイ」という単語が使われています。この二つの単語の違いは「ぺリ」という言葉が頭につくかつかないかの違いです。「ぺリ」というのは何か周辺的なことをさす言葉です。本来の働きに対して周辺的なことをするわけですから「余計なことをしている」といわれるのです。あるいは周辺のことに手を出すわけですから、「おせっかいをする」とも訳されます。テサロニケの教会の中にいた「怠惰な者」というのは、ほんとうに何もしない人たちなのではなくて、本来なすべき事をしないで、余計なことに手を出したり、他人の事におせっかいを焼いたりしているのです。「怠惰な者」というのは案外そうなのかもしれません。本当に働けないのならば、その人は手厚い保護のもとに置かれるべきでしょう。しかし、余計なこと、おせっかいなことはできるのに、本来なすべき働きを投げ出しているのだとすれば、そういう者こそ「食べてはならない」といわれるのも頷けます。

 そこでパウロは実際怠惰な暮らしを送っている人たちに対して、「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい」とイエス・キリストの名において命じ、かつ勧めています。

 パウロはその人たちに決してさらりと勧告しているのではありません。「命じ」かつ「勧めて」いるのです。しかも、それはパウロの個人的な見解なのではなく、キリストの権威において、必ず守るべきこととして命じているのです。この言葉は相当厳格なきつい言葉と受け止めた方がよいでしょう。

 けれども、パウロはこの怠惰な者たちを決して教会から追い出そうとしているわけではありません。テサロニケの教会の人たちに対して「しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい」と勧めています。パウロの願いはテサロニケの教会が主のみ心にかなった教会として建て上げられていくことです。何よりも建徳的に問題が解決されることをパウロは望んでいるのです。