2005年3月10日(木)「祈りの必要と確信」 テサロニケの信徒への手紙二 3章1節〜5節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 わたしがはじめて教会へ行き始めた頃、とても不思議に思ったことがあります。それは、牧師先生や信仰暦の長い人たちが、「自分のためにも祈ってください」とリクエストしていることでした。今となっては、そう願うことは自分にとってあたりまえのことになっていますが、しかし、キリスト教世界で生きてこなかった当時のわたしにとっては、とても新鮮な驚きでした。自分より何年も何十年も先を行く人が、まだ誰かに祈ってもらう必要があるというのは不思議な気がしたのです。

 今学んでいるテサロニケの信徒への手紙を書いたパウロは、この手紙に限らず、いろいろな手紙の中で、自分のためにも祈って欲しいと率直に述べています。きょうはそうしたパウロの祈りのリクエストと確信について学びたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙二 3章1節から5節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです。しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます。そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています。どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。

 きょうからテサロニケの信徒への手紙二の3章の学びに入ります。3章しかない短い手紙ですから、この章でパウロは手紙を結びます。その結びに向かってパウロは、自分たちのために祈って欲しいと願います。自分たちのための祈りといっても、単に自分たちの幸せや生活の安全を祈って欲しいといっているわけではありません。自分たちについて特に祈って欲しかったのは、「主の言葉が、…速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように」ということです。パウロが遣わされたのは正にそのためだという意識がパウロの中にはいつもあったのでしょう。何よりもパウロが願っていたことは、自分の働きを通して、主の言葉が浸透し、受け入れられていくということでした。それも、「速やかに」浸透することを願っていたのです。実際パウロがここで使っている言葉は、「走る」という言葉です。主の言葉がパウロの宣教の働きを通して駆け巡るように広がり受け入れられて行くことを願っていたのです。もちろん、パウロが願っていたことは、ただ走り回るように速く福音が広まるということだけではありませんでした。パウロが願ったことは、主の言葉がふさわしい栄光を受けることでもあったのです。ふさわしい畏れをもって受け取られることを望んでいたのです。その主の言葉の宣教のために自分が遣わされ、その自分のために祈って欲しいというのが、パウロの祈りのリクエストです。

 もちろん、そう祈ってほしいと願う背景には、宣教の困難さがあります。主の言葉は、放っておいても誰もが喜んで受け入れてくれるというものでありません。強い反対があり、執拗な抵抗が伴うことがしばしばです。パウロにとってはそうした困難さは日常茶飯事だったことでしょう。それだけ多くの困難を経験してきたパウロですから、自力でなんとか乗り越えるということも出来たかもしれません。しかし、パウロは自分の力を過信することなく、また、御言葉に反対する勢力の力を過小評価することもなく、素直に自分たちのために祈って欲しいと願っているのです。パウロはこの神の言葉の宣教の働きが、神の業であることを心得ていました。そうであるからこそ、キリストと結ばれた兄弟姉妹たちに、自分のために神に祈って欲しいと願ったのです。

 パウロが祈って欲しいと願ったことは、積極的に言えば「主の言葉が、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように」ということでした。しかし、そのことために「わたしたちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください」とリクエストしています。しかも、パウロによれば「すべての人に、信仰があるわけではない」という現実があります。だからこそ、御言葉を延べ伝える先々で「道に外れた悪人ども」からの妨害や迫害は避けることが出来ません。そうであればこそ、パウロの祈りのリクエストは真剣なのです。福音の宣教の業は、確かにそれを担っている人の才能や賜物も大切な要素です。しかし、それ以上に大切なことは、その働きを担っている人のために、どれだけ真剣に教会が祈り、支えてきたかと言うことはもっと大切なことです。

 祈りのリクエストを述べた後で、パウロはすかさず、テサロニケの人たちが直面している困難にも目を向けています。一章で既に学んだように、テサロニケの教会は神の国のために苦しみを受けています。自分たちの宣教の働きがテサロニケの教会の人たちの祈りを必要としたように、テサロニケの教会の成長にはパウロたちの祈りが必要であることもパウロはよく知っていました。しかし、パウロは祈りの必要性を覚えながらも、その心は既に確信へと変わっています。

 「必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます」

 パウロがそう確信できたのは、テサロニケの教会に集う信徒の中に何か素晴らしいものを見出したからではありません。神を真実なお方であると信じていたからです。約束に忠実で、裏切ることのないお方と信じていたので、テサロニケの教会が必ず悪い者から守られて約束のものを手にすることを確信しえたのです。また神が真実なお方であるから、テサロニケの教会に集う信徒一人一人が、使徒たちの教えに留まって、それを守り抜くことができると確信しえたのです。

 パウロは「神があなたがたを強め、悪い者から守ってくださいますように」と祈る代わりに、「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように」と祈っています。

 神が真実なお方であるということは、神の愛とキリストの忍耐によって具体的に現されています。わたしたちも、神の愛とキリストの忍耐によって、悪から守られていることを信じて歩みましょう。