2005年3月3日(木)「しっかりと立って守れ」 テサロニケの信徒への手紙二 2章13節〜17節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 電車の窓から見える景色や、ドラマや映画で写った何気ないシーンに教会の建物を見つけると、クリスチャンであるわたしは行ったこともないその教会の歴史や集う人々のことを色々と想像してしまいます。

 その場所に教会が建ち、これからもずっとそこに集まる人が絶えないことは、ただ単にその教会の歴史を築いてきた人々の努力の賜物とばかりは言えないでしょう。その教会の歴史を築いた人々、その教会に今集っている人々、それらの背後でいつも働いてくださっている神の働きを思い、いつしか神への感謝の気持ちが心のうちを満たしていきます。

 今、一つの問題に直面しているテサロニケの教会に宛てたパウロの手紙を学んでいますが、パウロがこの教会について、どんなことを見、どんな事を感じているのか、きょうも学んでいきたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙二 2章13節から17節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする”霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです。ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。

 今までこの手紙の二章を続けて学んで来ましたが、このテサロニケの教会が直面していた問題は「主の日は既に来てしまったかのように言う者」の存在でした。そのようなことを触れ回る者たちがいれば、信徒の中には「動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたり」する者が出てきたとしても不思議ではありません。そうした動揺を少しでも鎮めるためにパウロはこの手紙の二章をその問題に当てたのでした。しかし、パウロがテサロニケの教会のことを心配していることは間違いないとしても、しかし、彼らが惑わされないようにとパウロはやっきになって説得をしているという風でもありません。非常に冷静に、しかも、キリストの勝利を確信して落ち着いた気持ちで書き綴っている印象を受けます。

 前回取り上げた直前の個所では、終末の時に現れる「不法な者」の働きに惑わされ、ついには滅んでいってしまう者の事を学びました。パウロはテサロニケの教会の信徒たちが、そういう滅びる者たちの仲間に加わって一緒に滅んでしまうことを懸念していたのかと言うと、どうもそうなのではありません。

 パウロはこの手紙を書きはじめたときから、テサロニケの信徒のことを神に選ばれ愛された集団と見ていました。きょう取り上げる13節以下でも、やはり、その確信には揺らぎがありません。聖霊の力と信仰とによって彼らが救われる者の初穂とされたことをパウロは確信し、神に感謝しています。その確信があるからこそ、パウロはテサロニケの教会の信徒に大胆に命じています。

 「ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。」

 「しっかり立つこと」「教えを固く守ること」、それができるのは、テサロニケの教会の信徒たちが、神に愛され、救いへと選ばれているからなのです。このことは何もテサロニケの教会の信徒だけの特権ではありません。どこの教会であれ、神が選び、神が愛された教会は、それゆえに、しっかりと立って、教えを固く守ることが期待されているのです。また、その期待にしっかりと応えることができるのです。

 もし、このパウロの勧めの言葉が、人間の努力や力に期待しているのだとしたら、それは全く希望の持てないものです。なぜなら人間はそもそも救いに至る真理を愛そうとしない傾向に傾いているからです。

 ところで、パウロは教えを固く守り続けるようにと勧めていますが、その教えはパウロたちが「説教や手紙で伝えた教え」です。それは言い換えれば使徒たちから受け継いだ伝承であり、もっと端的に言えば聖書そのものと言ってよいでしょう。もちろん、この手紙が書かれたときには新約聖書は成立していませんでしたから、今、わたしたちが手にしているようなものをテサロニケの教会の人たちはもってはいなかったでしょう。しかし、今は使徒たちを通して受け継がれてきた教えのすべてを聖書を通して十分に与えられているのですから、今のわたしたちはなおさら受け継がれた教えにしっかり立つ責任があるのです。

 そもそも、教会を惑わすような教えは、使徒たちが受け継いで伝えたものから外れた教えです。確かに教会も歴史の中を歩む存在ですから、新しい状況や問題に直面して答えを出さなければならない時があります。しかし、その答えが新しい教えであってはならないのです。常に注意深く聖書の教えと照らしあわせて、自分たちの立つべきところを見出していかなければなりません。使徒たちが伝えたものとは違う基準の上に教会を建てることはできないのです。

 さて、パウロはこうした勧めの言葉を結ぶに当たって、祈りをささげています。その祈りの内容はイエス・キリストと父なる神が、テサロニケの信徒たちの心を励まし強めてくださるようにとの祈りです。パウロはテサロニケの教会員一人一人に使徒たちの教えの上にしっかりと立ち続けることを勧めると同時に、彼らの心が神によって励まされ、強められて、しっかりとした教会として建て上げられることを願っているのです。どんな勧めの言葉も、祈りによって裏打ちされるのでなければ、それを実現することは困難です。今、この地上にある教会が、神の言葉の上にしっかりと立つことができるように、神がそこに集う一人一人の心を励まし力づけてくださるようにとお祈りします。