2005年2月24日(木)「滅びるものが滅びる理由」 テサロニケの信徒への手紙二 2章9節〜12節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
神の選びや予定と言う言葉を聞くと、なんだかとても恐ろしい感じがするかもしれません。そして、この神の選びに関して寄せられる一番の質問は、こんな内容のものです。それは、「神の選びということがほんとうなら、神は信じようとしない者を無理やり救いに選んだり、救われたいと願うものを無慈悲にも滅びの底に突き落としたりすることになるのではないか」というものです。もし、そのように神が人を無理やり救いに選んだり、無慈悲にも滅びの底に突き落としたりするのであれば、もはや、人間の自由な意志というものにも意味がなくなってしまうように思えます。
このことは、神の奥義の領域に関わる問題ですから、人間がいくら考えても正しい答えを見出すことは出来ないのかもしれません。しかし、きょうこれから学ぼうとしている個所には、この疑問に関するいくらかの答えがありそうな気がします。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙二 2章9節から12節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。
今読んだ個所は、ギリシャ語の本文からいうと、文章の途中からになります。本来ならば、先週、一気に取り上げてしまうべきだったのかもしれません。少なくとも8節から10節までは一続きの文章です。先週取り上げた8節では、「不法の者が現れる」ということが書かれていました。この「不法の者」については、8節の説明によれば、主イエス・キリストが「彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼして」しまうということでした。
言ってみれば、終わりの時に現れる「不法の者」は主イエス・キリストの手の内にあるわけですから、現れるといっても終わりが見えているわけです。パウロはまずそのことを最初に述べてから、きょう取り上げた個所で、もう少し「不法の者」についての説明を続けます。
9節と10節で続けられる「不法の者」についての説明は、キリストを信じる者たちにとってどういう影響があるのかという解説ではありません。それについては、すでにその前の節で、キリストの勝利が語られていることで十分理解できることです。9節と10節はむしろ、この「不法の者」が、キリストを信じない者たちにとってどういう存在であるのかが語られます。
この「不法の者」が現れるのは、サタンの働きであることがまず最初に述べられます。それから、この「不法の者」が持っている力について次々に述べられていきます。この「不法の者」は「あらゆる奇跡としるしと不思議な業」を伴って現れると記されています。しかし、それは神の力や栄光を示すような「奇跡としるしと不思議な業」なのではありません。「偽りの」「奇跡」であり「しるし」であり「不思議な業」に過ぎないのです。それだからこそ神から遣わされてくるものではなく、「サタンの働き」によるものであると最初に言われるのです。
こうした偽りの奇跡としるしと不思議な業を伴っているわけですから、「不法の者」は「あらゆる不義の欺き」を伴ってやって来るとも言われているのです。もちろん、キリストを信じて救われる者たちにとっては、その「偽り」や「欺き」は明らかです。ですから、騙されたり欺かれたりするはずもありません。けれども、「滅びていく人々」は、その偽りを見抜けず、欺きに見事に引っかかってしまうのです。なぜなら「自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったから」であるとパウロはその理由を述べます。「不法の者」の偽りや欺きが巧妙で、ついうっかり騙されてしまったというのではありません。「滅びていく人々」は、自分たちを救うはずの真理を最初から愛さず、真理に顔を背けているからなのです。その点で自分の滅びの責任を神に押し付けることは出来ません。自分で救いにいたる真理を拒絶しているからです。
「それで」とパウロは述べます。
「それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。」
人々が救いにいたる真理を愛さず、不義を喜んでいるがゆえに、神は惑わす力を送られたというのです。この惑わす力がますます真理から彼らを遠ざけ、偽りを信じるようにさせてしまうのです。
この不思議な言い回しに、わたしたちは戸惑いを覚えるかもしれません。何故神は迷いから助け出す力ではなく、惑わす力を送って、偽りや惑わしの中に彼らを閉じ込めてしまわれたのでしょうか。そういう問いの出し方で、この段落を読むと、いかにも神の選びは無慈悲であるかのように思えてくるかもしれません。しかし、パウロが伝えようとしていることはそういうことではありません。その前にはっきりと記されているように、真理を愛そうとしない人間の心のかたくなさこそ大きな問題なのです。
同じような表現は、ローマの信徒への手紙の中にも出てきます。1章28節です。
「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」
ここでも、罪の人間の心のかたくなさが問題になっています。神を認めさえすれば、救いに与ることができるものを、自ら好んで神を拒むために、結果として、無価値な思いに縛られた生き方に埋もれてしまうのです。
世の終わりの時代になって、「不法な者」が姿を現すと、その偽りや欺きに、自分から好んではまっていく者がさらに顕わになります。しかし、何度も繰り返して言うように、「不法の者」が力を現すのは、自分から救いの真理を拒んだ「滅びる者」にとってのことなのです。救いの真理を愛し、キリストを信じる者にとっては恐れる必要のない相手なのです。そうであればこそ、パウロが二章のはじめのところで述べているように「主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたり」する必要がないのです。