2005年2月17日(木)「抑えるもの」 テサロニケの信徒への手紙二 2章5節〜8節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
わたしがまだ牧師になるための勉強を神学校で学んでいたころ、世の終わりについてのシナリオをある先生から聞かされたことがありました。そのシナリオと言うのは、終末の時に向かって、悪の力が増大していくというものでした。ただ、今はまだ神の一般的な恵みが世界を支配しているので、極端な悪が世界を覆うことがないのだそうです。わたしはその話を聞かされたとき、願わくは自分の生きている時代に悪の力が頂点を迎えることがないようにと思いました。それくらいその当時のわたしにとっては印象深いお話であり、ショッキングな内容でした。
確かにその分部だけを聞かされれば、世の終わりへの期待どころか、恐怖感だけが増長されてしまいます。
実はきょう取り上げようとしている個所には、終末にいたるまでのシナリオらしきものが描かれています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙二 2章5節から8節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
まだわたしがあなたがたのもとにいたとき、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか。今、彼を抑えているものがあることは、あなたがたも知っているとおりです。それは、定められた時に彼が現れるためなのです。不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。」
今月は何回かにわたってテサロニケの信徒への手紙二の2章を取り上げています。ここでは「主の日が既に来てしまっている」と触れ回っている者たちに関連して、そういった間違った触れ込みに教会が惑わされてしまわないようにと、パウロは筆を進めています。そういう意味でパウロが手紙を書いた執筆の目的は明らかです。しかし、細かい分部を知ろうとすればするほど、分かりにくい個所でもあります。パウロが手紙を書いた意図を読みこぼしてしまわないように注意しながら、きょうの個所を追っていきたいと思います。
さて、前回の学びには「不法の者」という言葉が出て来ました。その「不法の者」が具体的にいったい何者であるのかは、結局、この手紙の中では明らかにはされていませんでした。きょう取り上げた個所にも、やはり不思議な用語が登場しています。その一つは6節に登場する「抑えているもの」です。この「抑えているもの」は先週学んだ3節に登場する「不法の者」「滅びの子」の出現を「抑えているもの」と呼ばれています。
7節にもう一度「抑えている者」という言葉が登場します。耳で聞くかぎりではどちらも「もの」ですが、7節に登場するのは平仮名ではなく、漢字で「者」と記されています。ギリシャ語では中性名詞と男性名詞の違いがあります。この二つの違いは大きな違いなのか、それともほとんど同じ意味で使われているのか、その点がはっきりしません。
両者が同じものであるとしても、その「抑えているもの」が具体的に何を指しているのか、やはりこの個所を読むだけでは分かりません。それは神の一般的な恵みを指しているのでしょうか。あるいは神の力そのものを指しているのでしょうか。あるいはある国の政治力をいっているのでしょうか。それとも何がしかの霊的な力を指しているのでしょうか。いろいろなものが候補に上がるかもしれません。
7節では「不法の秘密の力」が既に働いているといわれています。しかし、「不法の秘密の力」が具体的に何を指しているのか、それもまた不明です。
さらに、この「不法の秘密の力」の活動期間は、「抑えている者」が取り除かれる時までの間であるといわれています。その「抑えている者」が取り除かれる時、今度は「不法の者」が現れると記されています。今まで活動してきた「不法の秘密の力」と、新しく現れる「不法の者」との関係はどうなっているのでしょうか。今まで秘密の力でしかなかったものが、抑える者がいなくなった途端に、その姿を公然とあらわすということでしょうか。その二つの関係…「不法の秘密の力」と「不法の者」の関係も、この手紙だけからでは明らかではありません。
こうしてきょうの個所を改めてながめてみると、分からないことがたくさん出てきます。しかし、5節と6節を読む限り、テサロニケの教会の人たちはこのことをはじめて聞いたというのではなさそうです。パウロがテサロニケの教会にいたときから繰り返し教えられてきたことですから、十分承知していたはずです。残念ながら今のわたしたちにはわからないことだらけでも、この手紙を受け取ったテサロニケの教会の人たちには明らかであったということです。
しかし、一つ一つの細かい事柄に関しては分からないことだらけであるとしても、一つだけ非常に明らかなとがあります。それは、抑えている者が取り除かれて、不法の者が姿を現す時がきても、主イエス・キリストがご自分の口から吐く息で彼を滅ぼしてしまうということです。吐く息で滅ぼされてしまうような相手なのですから、それは恐れに価する者ではありません。決してそこで大々的な戦いが繰り広げられるのではありません。どちらが勝利を収めるのか、予想もつかないような戦いになるのでもありません。キリストのたったの一息で決着がついてしまうような戦いなのです。
さて、終末に至るまでの出来事やシナリオは、今のわたしたちにとっても興味が尽きないのは事実です。しかし、それに振り回されてしまってはもとも子もありません。
そもそも、テサロニケの教会の周りで「主の日は既に来てしまったかのように言う者」が現れたのも、もとはといえば、世の終わりについての関心からに違いありません。けれども、パウロによれば、彼らは明らかに終末の出来事が起るシナリオを読み間違えています。
さらに、そのようなことを触れ回る者たちは聞く人々に不安と動揺を与えるだけで、聖書が約束してくださっている神の勝利の福音を薄めてしまっているのです。
確かに、パウロは終末に向かうまでのシナリオを書いているようにも見えます。しかし、パウロは不安を煽るためにこのことを書いているわけでは決してありません。むしろ、パウロのメッセージの向こうにはいつも勝利に輝いているキリストがいらっしゃいます。この勝利してくださるキリストに目を留めつづけることにこそ、「動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしない」秘訣があるのではないでしょうか。