2005年2月3日(木)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教信仰のいくつかある柱の中に、終末論というのがあります。終末論というのは、世の終わりがやってきて、救いが完成するという教えです。その終末の時にイエス・キリストが再びやって来ると聖書にはいわれています。それを「キリストの再臨」と呼んでいます。そして、キリストの再臨の日を、主が来られる日という意味で「主の日」と呼んでいます。この再臨のキリストがやってこられる主の日について、キリスト教会の歴史を振り返ってみると、様々な期待とともに様々な誤解もありました。誤解を通り越して、全く違った期待を信じる人々も出て来ました。  きょう学ぼうとしている個所には、テサロニケの教会に入りこもうとしている主の日についての間違った教えが取り上げられています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙二 2章1節と2節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。」

 今お読みした個所が属するテサロニケの信徒への手紙二の2章全体は一つのまとまりをなしていると考える事が出来ます。確かに、2章の出だしでは、この教会について少し不安な印象を抱いてしまいます。

 「すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」…こういう言葉を聞くと、動揺して分別をなくしてしまいそうなテサロニケの教会をパウロが躍起になって、立て直そうとしているところを想像してしまうかもしれません。

 しかし、2章の後半を見ると、パウロはテサロニケの教会を救われるべき者の初穂として選んでくださった神に感謝し、この神によって励まされ強められるようにと期待を込めて祈っています。従って、2章を全体として読むときには、とても安心感をもって読むことができると思います。

 この点は今のわたしたちが教会を見るときにも大切な視点であると思います。教会には様々な問題が持ち上がります。そして、それによって動揺したり、慌てふためいたり、教会の中がごちゃごちゃになってしまいそうになります。しかし、その教会を選び、支え、養ってくださる神様がいらっしゃることを思うときに、確信と安心をもって問題に向き合うことができるのではないでしょうか。そういう意味で、きょう取り上げる2章の出だしは、一読するとテサロニケの教会について不安な気持ちにもさせられますが、しかし、これを書いているパウロの心がかき乱されそうなくらい動揺しているかといえば、必ずしもそうではありません。

 さて、テサロニケの教会に入り込もうとしている問題はどのようなものだったのでしょうか。それは「主の日は既に来てしまった」と言いふらす者たちがあらわれたということです。この教えがいったいどんな教えなのか、正確に再現することは出来ません。もしかしたら、既に学んだテサロニケの第一の手紙と深くかかわりがあるのかもしれません。既に学んだように、テサロニケの信徒への手紙一の4章12節以下には、キリストの再臨の時よりも前に亡くなってしまう信徒たちのことで、テサロニケの教会には少なからぬ嘆き悲しみがありました。そのような悲しみの前提には、キリストの再臨は自分たちの生きている時代に起るのだ、という期待があったと考えられます。つまり、現実は期待通りに事が運ばず、既に世を去る人も出てきてしまったために、その事態をどう受け止めたらよいのか嘆き悲しむ者がいたのです。

 そのような嘆き悲しみに対してパウロは、キリストの再臨よりも先に亡くなった信徒も、生きていて再臨を迎える信徒も、共にキリストのうちに迎え入れられるのだという希望を切々と説きました。

 しかし、ある者たちは、こう考えたのではないでしょうか。

 「実は既にキリストの再臨は起ってしまっているのだ。従って、既に亡くなった信徒は救われなかった信徒で、今後も死者の復活などない」と。もし、そんなことを言い出す者がいたとしたら、これは教会にとって大変な動揺をもたらす発言です。キリストの再臨を切に期待しながら、しかし、一向に訪れようとする気配も感じられない世の中に、そういう過激な発言はたちまち信徒の心を揺さぶったことでしょう。

 あるいは、こうも考える事ができるかも知れません。彼らが既に到来しているという「主の日」は、キリストが雲に乗ってやってくる再臨の日そのものではなくて、その前後に語られる様々なしるしを伴う終わりの日、つまり終末の時が既にやってきたと言いふらしている人々のことを言っているのかもしれません。

 イエス・キリストは世の終わりのしるしについて語るとき、迫害や苦しみのことを挙げました。そういう意味で、この手紙の中に記されているようにテサロニケの教会は迫害と苦難のただ中にあるのですから(2テサロニケ1:4)、その迫害や苦しみを終わりの日のしるしと考える者たちがいたとしても不思議ではありません。

 いずれにしても、そのような間違った教えを、霊や言葉によって、あるいは、パウロたちから書き送られたという手紙によって言いふらす者たちがいたというのですから、その執拗さは並大抵ではありません。

 このような苦難や艱難を時代の徴として誇張し、終末の日が既に到来しているかのように言いふらす者たちが現れるのは、何もパウロの時代特有のことではありません。現代においても、そのような歪んだ終末の理解によって、人々を惑わせようとする者たちが後を絶ちません。

 そうであればこそ、次のパウロの言葉はどの時代の教会も耳を傾けて聞かなければならない言葉です。

 「主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」

 終末の時の完成を期待しながら、しかし、同時に、終末についての様々な間違った教えや期待に翻弄されないように、しっかりとした信仰の歩みを続けましょう。