2005年1月13日(木)「感謝と誇り」 テサロニケの信徒への手紙二 1章3節〜4節
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
教会の成長は何によって計られるのか…これには色々な見方があります。例えば、そこに集まってくる人がどれくらいいるのか、それによって教会の成長がどれくらいあったのか表すことが出来ます。小さな群れに過ぎなかった教会が、今や会堂から溢れんばかりの人たちが集まるようになれば、それは立派な成長を遂げたことになります。あるいは、最初は外国の教会の援助によって支えられていた教会が、今や他の教会の伝道を経済的に支援できるようになれば、これも立派な成長です。しかし、そういった面ばかりではなく、あらゆる困難の中で信仰がますます強められていったとすれば、それもまた立派な成長と言うことができます。
きょう取り上げる聖書の個所ではそういった内面の成長に対する感謝のことばが述べられています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙二 1章3節と4節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です。あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。それで、わたしたち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。」
きょうお読みした個所は、神への感謝を述べた分部です。実際には3節から12節まで、一続きの長い文章で一気に書き連ねたものです。この一続きの文章でパウロは神への感謝を表しました。しかし、ここではあえて、その一続きの文章を内容に即して分断して取り上げることにしました。
この一連の文章の前半で、パウロは感謝と誇りについて述べていますが、後半ではテサロニケの教会が直面している問題に関連して、神の正義と審判への期待を強く述べています。
さて、パウロのほかの手紙と同じように、この手紙でも挨拶の言葉に続いて、感謝のことばが述べられます。確かに、パウロのどの手紙にも見られる形式にのっとって書かれたといえばそれまでです。しかし、その内容は決して形式的な表面的な感謝のことばではないことは、一読しただけですぐに理解できると思います。
ところで、パウロはその感謝の言葉を言い表す時に、「感謝するのはわたしたちの当然の義務である」というようなニュアンスの表現ではじめています。新共同訳では「感謝せずにはいられません」と訳している語句がそれです。同じ表現は2章の13節にも見られます。一見どこにでもありそうな表現なのですが、パウロがそのように強い言葉で感謝を言い表しているのは、この手紙以外にはありません。
一体、どんなことをいつも感謝せずにはいられない、感謝するのは当然だという気持ちになったのでしょうか。その理由が続けて述べられます。
「あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです」
この主題はテサロニケの第一の手紙の書き出しの部分と大変よく似ていますが、しかし、細かな点で違っています。両方の手紙ともテサロニケの教会の「信仰」と「愛」について言及しています。しかし、第二の手紙では「希望」についての言及がありません。「信仰」について取り上げる時も、第一の手紙では「信仰の働き」について述べられますが、第二の手紙では「信仰が豊かに成長したこと」に目が注がれています。「愛」についての言及も、第一の手紙と第二の手紙では、着眼点に違いが見られます。第一の手紙では「愛の労苦」に目が注がれるのに対し、第二の手紙では「愛が豊かになったこと」に目が注がれています。それらの観点の違いが何によって影響されているのかは分かりませんが、少なくとも第二の手紙では「信仰」も「愛」も豊かに成長したことが感謝の理由として挙げられています。
「希望」についての言及が第二の手紙にはないことは、先ほども触れましたが、ここの個所ばかりではなく、第二の手紙全体に「希望」という言葉がほとんど出てこないのは、第一の手紙と比べて対照的です。
第一の手紙では「希望の忍耐」という表現が使われていましたが、第二の手紙では「忍耐と信仰」という表現が使われます。その場合の「忍耐と信仰」とは「ありとあらゆる迫害と苦難の中で」示される「忍耐と信仰」です。そういう意味では、確かに「希望」と言う言葉そのものは出てきませんが、迫害と苦難の中で希望をもって忍耐し、信仰に留まるテサロニケの教会の姿は言外に十分現れていると思います。
もっともテサロニケの教会が実際に直面していた「迫害と苦難」とがどういうものであるのかは、ここには記されていません。血を流すような拷問を受けたのか、あるいは、教会を取り巻くコミュニティーから断絶されたということなのか、具体的なことは分かりません。しかし、いずれにしても迫害と苦難の中で示された忍耐と信仰とをパウロは誇りと感じているのです。
パウロが感謝しているのは、このような迫害と苦難の中にあって、信仰が成長し、愛が豊かになっているテサロニケ教会の姿を知ったからでした。「感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です」というパウロにしては異例な表現で感謝の気持ちを表しているのには、こうした「迫害と苦難」と言う背景があったからでしょう。
テサロニケの教会が数の上でどれくらい成長したのかは分かりません。経済的にどれくらい豊かになったのかも分かりません。しかし、それ以上に感謝なことは、この教会が信仰と愛とにおいて、豊かな成長を遂げたという事実なのです。一つの教会を見るときに、そういう点に着眼して、心から神に感謝を表す姿勢を学びたいと思います。
日本の教会は数の上から言えば成長が遅いと言われています。特に地方へ行けばその傾向はもっと明らかです。しかし、その中にあっても、「いつも神に感謝せずにはいられません。また、そうするのが当然です」と心から思えるような何かを教会の中に見出していく姿勢も大切なのではないでしょうか。