2024年10月21日(月)神に捕らえられる時

 おはようございます。花見川キリスト教会牧師の中山仰です。

 私たちは、様々な考えや思想、学説などに接するとき、それが正しいかどうか、自分で受け入れられるかどうかで判断します。私たち日本人は、いろいろな外来の考え方に対して、それぞれ評価をくだしてきており、自分に合うかというよりも、日本人に合うかどうかを受け止めて行くことが非常に強かったのではないでしょうか。

 その尺度で考えますから、神の言葉である聖書を読むときも、同じスタンスで判断することでしょう。イエスの生涯は、あんなことをした、こんなこともした、と追うようにして読み進めて行きます。ところがある日、突如として、そのイエスに見つめられている、その眼差しに射すくめられていると感じ始めます。

 その時というのは、意識しなくても、私たちの罪が暴かれている状態なのです。イエスの弟子のペトロは、「主よ、…離れてください。私は罪深い者なのです」(ルカ5:8)と言った瞬間がありました。それは、自分の罪を非常に深く意識し、聖なるお方と接することによって、自分が見据えられていることを経験したからです。

 ここにおいて、主客転倒が起こります。こちらでは、イエスがこんなことをしている、あんなことをしている、と見ている段階では、安心なのです。ところが、聖書を読んでいくと、キリストが見つめているという感覚に襲われるのです。聖書が、ある基準をもって迫ってくるからです。

 これが、信仰的出会いというものです。神の言葉があり、神の真理の教えが目の前にあって、そこに私たちの方が引き渡されるという感覚です。それからは、命がけで読み進めて行くことになるでしょう。実際に、命に至る言葉となります。


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