2022年5月16日(月)イエス様による和解

 いかがお過ごしですか。船橋高根教会の牧師の小峯明です。
 「命に嫌われている」(作詞作曲:カンザキイオリ)という歌を、年末の歌番組(第72回NHK紅白歌合戦)で聞きました。厳しい世の中で、生きづらさを抱える現実が歌われているように思いました。もちろん、その中でも、「生きて、生きて」と歌は終わっています。

 この歌を聞きながら、わたしが思いましたのは、命に嫌われている、そのことは、死に好かれているのではないか、ということです。わたしたちは、死の力に抗うことができません。その現実は、先程の歌の中で歌われていました。「年老いていつか枯れ葉のように誰にも知られず朽ちていく。」と歌われています。

 わたしたちは皆、土に返ります。その現実を聖書は、「塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3:19)と宣告しています。神様との約束を破り、悪魔の言葉に従った最初の人の罪と堕落に対する神の宣告です。この時以来、わたしたちは、死から逃れられなくなりました。そしてその状態は、神様が、わたしたちの敵となった状態です。何とわたしたちは、堕落によって、神に嫌われてしまいました。

 命と神に嫌われたら、わたしたちには望みはありません。このままでよいのでしょうか。よいはずがありません。ですから、神様自ら、罪には怒りと罰を、そして、神様へと心を向ける者には命と救いを与えることにされました。そのために遣わされた方が、イエス様です。命に嫌われ、神に嫌われ、死と絶望に取らえられ、死に好かれたわたしたちを塵の中から再び呼び出すために、イエス様が、わたしたちを神様と和解させてくださいました。

 ですから、イエス様に心を向けて、イエス様を神の子と信ずる時に、わたしたちは神に愛され、命に愛され、わたしたちもまた神の子にしていただけます。命に嫌われていると思えるような現実の中から、神様は、わたしたちを愛して助けてくださいます。(ローマ5:9-10参照)