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民数記1章
「荒れ野で主の民として受けた祝福」


シナイの荒れ野にいたとき、主は臨在の幕屋でモーセに仰せになった。
(民数記 1章1節)

 主の民の歴史を大きく見るならば、荒れ野は豊かで自由な場所です。奴隷の地であるエジプトにいたとき、ファラオに逆らう自由はありませんでした。主の御言葉を守ることは、ファラオによって決定的に妨げられていました。実際、ファラオを恐れつつ、生活の道を探るような有様だったでしょう。

 しかし、荒れ野では違います。主の仰せに従って、民の秩序が整えられます。そこには、主の御言葉に従う自由があります。主は羊飼いのように、一人一人の名を呼んで、民を整えてくださいました。

 「氏族ごとに、家系に従って、男子全員を一人一人点呼し、…兵役に就くことのできる20歳以上の者を部隊に組んで登録しなさい」(2、3節)。この民が召された戦いは、主にあって特別なものです。神を信頼することによって勝利を得続ける戦いです。まず民自身の迷う心が敵なのです(詩95編10節参照)。

 その戦いでは、望みの確信の中で、見えない事実を見ます。アブラハムは、一人のイサクを見て、天の星のように増える民の未来に確証を得ました。さらに今は、民を数えながら、神の言葉が指し示す未来を見ます。神の言葉こそが現実であることを確認しながら。

 

 【祈り】

 私たちを養い導かれる主の真実をほめたたえます。

貫洞 賢次(札幌伝道所)

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