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イザヤ53章
「彼の受けた傷によって癒やされた」


病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。

主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。
(イザヤ 53章10節)

 主の御腕の力、主の力、恵みの力、主の救いの力は、どこに示されているのでしょうか。

 一人の苦難の僕の姿が描きだされています。人びとは、彼のことを理解できません。軽蔑し、無視し、そして、こう考えます。あの人が苦しみを負っているのは、自分の罪の結果であり、神に打たれている。けれども、真実には、彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みでした。

 この「僕」は誰のことでしょうか。誕生と生育、人びとに忌み嫌われること、病、苦役と裁きも語られています。命を奪われること、葬りも語られています。驚くべきは、それが主の御旨であったこと、主の目的であり、主が望まれたことだということです。

 この僕こそ、十字架の上で裁かれたナザレのイエスです。主イエスの復活の後、このイザヤ53章により、受難と死が何のためであったのか分かったのです(ルカ24章27節、使8章35節)。主イエスは、私たちの「罪」と「死」を負われました。十字架の死は私たちの身代わりでした。

 「わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(1ペト2章24節)。受難の主を仰いで受難節を過ごしましょう。

 

 【祈り】

 病や死によっても、キリストの愛から引き離されることがないことを確信させてください。

西堀 則男

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ふくいんのなみ 2024