わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの。なぜ、あなたは恐れるのか死ぬべき人、草にも等しい人の子を。 (イザヤ 51章12節) 神の民は、偶像礼拝に陥ったため、バビロン捕囚という神からの裁きを受けなければなりませんでした。17節から20節には、その裁きの様子が記されます。激しい裁きのゆえに、神の民は望みを失い、絶望的な思いにかられたに違いありません。 しかし、裁かれたまま終わるのではありません。神御自身が裁きを終わらせ、神の民を回復してくださるのです。51章は、その慰めのメッセージなのです。「わたしに聞け」で始まる1節から3節は、神の民を慰める神の呼びかけになっています。 慰めるにあたり、過去の神の恵みの御業を思い起こさせます。2節では神の民の父である「アブラハム」を思い出すように言い、3節ではエデンの園に触れます。10節には出エジプトの出来事も言われています。そして12節で「わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの」と力強く言われるのです。 神の民は、罪の裁きで終わるのではありません。絶望で終わるのではありません。たとえ裁きがあっても、赦しと救いと慰め、希望へと導かれるのです。しかも、神御自身の憐れみと恵みによってです。そのことが、旧約にある神の民の歴史によって示されます。 【祈り】 イスラエルの民を慰めたまことの神よ、あなたが赦しと救いと慰め、希望を与えてくださることを信じて、感謝いたします。 川杉 安美(草加松原伝道所)
神の民は、偶像礼拝に陥ったため、バビロン捕囚という神からの裁きを受けなければなりませんでした。17節から20節には、その裁きの様子が記されます。激しい裁きのゆえに、神の民は望みを失い、絶望的な思いにかられたに違いありません。
しかし、裁かれたまま終わるのではありません。神御自身が裁きを終わらせ、神の民を回復してくださるのです。51章は、その慰めのメッセージなのです。「わたしに聞け」で始まる1節から3節は、神の民を慰める神の呼びかけになっています。
慰めるにあたり、過去の神の恵みの御業を思い起こさせます。2節では神の民の父である「アブラハム」を思い出すように言い、3節ではエデンの園に触れます。10節には出エジプトの出来事も言われています。そして12節で「わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの」と力強く言われるのです。
神の民は、罪の裁きで終わるのではありません。絶望で終わるのではありません。たとえ裁きがあっても、赦しと救いと慰め、希望へと導かれるのです。しかも、神御自身の憐れみと恵みによってです。そのことが、旧約にある神の民の歴史によって示されます。
【祈り】
イスラエルの民を慰めたまことの神よ、あなたが赦しと救いと慰め、希望を与えてくださることを信じて、感謝いたします。