強盗の巣窟と見えるのか | エレミヤ書 7章

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エレミヤ書 7章

「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』 エレミヤ書 7章11節

強盗の巣窟と見えるのか

主なる神は、神殿で礼拝をささげるイスラエルの人びとに、この神殿がお前たちの目に強盗の巣窟に見えるのかと叱責されました。神の神殿がまるで強盗の巣窟のようになっているということです。強盗の巣窟とは、強盗たちが強盗の仕事から帰って来て安息する場所です。日常生活の中では神の御言葉に逆らって不法を働き、隣人から騙し取る強盗のように生きているにもかかわらず、神殿ではいけにえをささげて自分は救われたと言い、安息を得ようとしているという指摘です(10節)。

日常生活が神礼拝から分離していたと言えるでしょう。神の民の生活は神を礼拝することと一つのものとして営まれます。信仰者にとって、日々の生活は礼拝する生活にほかなりません。そして、「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」(1ヨハ4章20節)とあるとおり、私たちは、日毎の隣人を愛する生活を通して神を愛する愛を表すのです。

「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(ヨハネ2章16節)とおっしゃった主イエスこそ、私たちの神への愛と隣人への愛を回復してくださるお方です。日々の生活が神を礼拝する生活として整えられるように祈り求めて参りましょう。

【祈り】

私たちの礼拝が強盗の巣窟ではなく、神への愛と隣人愛を実践するまことの礼拝になりますように。

韓 相眞(山本伝道所)