ヘブライ人への手紙 1章
御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、…人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 ヘブライ人への手紙 1章3節
十字架から始まる生活
片岡 継(ワシントン日本人キリスト教会)
御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、…人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 ヘブライ人への手紙 1章3節
片岡 継(ワシントン日本人キリスト教会)
2017年3月の聖書日課をまとめて表示します。
「ヘブライ人への手紙」の聖書日課をまとめて表示します。
片岡 継が担当した聖書日課をまとめて表示します。
御子イエス・キリストを見つめる生活は、神を神とする生活です。それは、神ではないものを神とするのではなく、神のみを礼拝する生活です。
新約聖書が書かれた時代には、天使を礼拝する人たちがいました。しかしイエス・キリストは天使よりも優れたお方です。なぜなら、そのお方は「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」であるからです。
イエス・キリストは、旧約聖書にも記されていた神の言葉をその存在をもって完全に現されました。地上の生涯そのものが「義を愛し、不法を憎」(ヘブ1章9節)む歩みでした。その極みが十字架でした。
あの十字架の主イエスを見つめるとき、私たちは自らの不義を見つめます。同時にキリストの義を得ている事実に出会います。私たちの不義をキリストが担い、キリストの義が私たちに転嫁される。
自分には非がないと責任を擦り合う世にあって、私たちは、この御子の十字架のもとに留まります。それは罪を罪と認めることです。罪を罪とすることは、神を神とすることに繋がります。御子の十字架は、その罪を神が赦される場です。