月刊誌リジョイス 聖書日課 2019年10月12日(土)

エゼキエル14章 生きてきたこと、それ自体に慰めがある

  

「お前たちは彼らの歩みと行いを見るとき、わたしがエルサレムにくだした災い、わたしがそこに臨ませたすべてのことについて慰められる。お前たちは、彼らの歩みと行いとを見て、それによって慰められ、わたしがそこで行ったすべてのことは、理由なく行ったのではないことを知るようになる」(エゼキエル14:22-23)

 人びとがいかに楽観的な空気に浸り、また偶像に心寄せて恐れを取り繕ったとしても、神の裁きをやり過ごすことはできません。罪が重ねられています。神の怒りの時が迫っています。それは飢饉、荒廃、滅び、疫病として、それまでの生活が徹底的に破壊され、覆される時です。

 その時を見据える私たちは神の裁きが持つその厳粛さに心を寄せます。妥協はありません。誰もが自分の罪を背負う。どのような義人も、隣人への裁きを肩代わりすることはできません。「彼らは自分の息子、娘たちすら救うことはできない」(18節)。愛する者の明日さえ担い、守ることができないのです。

 神はその怒りを発せられることを通して、神が人間に命を与え、また奪い得るものであることを知らされます。 きょうまで、私たちが生きてきたことに、愛する者が生かされてきたことに慰めを受けます。神がそうおゆるしくださいましたから。私たち一人ひとりの生には、神がそうあることを求めてくださったというあたたかな恩寵があります。その事実が、私たちに平安を抱かせ、天を仰がせます。

Copyright (C) 2019 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.